【十六】「緊急事態?」





「緊急事態?」

 ルカス陛下が立ち上がり、ソファに座ると、その正面に宰相閣下も座った。レストも入ってきて、紅茶の用意を始めた。俺もゆっくりとベッドから降りて、着替えをする事に決める。お茶を出し終わったレストも、俺の方へとやってきた。こうして俺は、奥の影で着替えをし、深刻そうな宰相閣下の話は聞かないようにしようと決めたのだが――耳に入ってくる。声が大きい。

「――というわけで、ヴァレナード侯爵家が、明後日急遽夜会を開くと」

 なんでも、隣国に嫁いでいるヴァレナード侯爵の姉が、明日急遽帰国するらしい。隣国のディオーリフラ王国は、この国と仲が良いという点しか、俺は知らない。俺は国外に出かけた事は一度もないのだ。

「そこで、お帰りになったミルゼ様の歓迎の他、ご子息の、ディオーリフラ王国第三王子のユーディス殿下をこちらにご紹介なさりたいとの事で」
「王子殿下の急な来訪は、確かに困るが、何も扉を開けなくても良かっただろう」

 どこか切ない声を、ルカス陛下が出した。すると、宰相閣下が呆れたように吐息した。

「陛下。陛下が男の妃を迎えるという話は、大陸全土でも今、一番の話題です。どの国も、余っている王子の結婚には頭を悩ませているのが現状で、後宮とは何人も妃を迎えられるのが本来の制度――この状況で連れてくるというのは、ユーディス殿下を迎えて欲しいという意味だ。暗にそう言う事だ。これは緊急事態では無いというのか?」

 宰相閣下が吐き捨てるようにそう言うと、ルカス陛下がカップを慌てたように置いた。

「な……俺は、オルガ以外を迎えるつもりはないぞ」
「そうだろうな、それは別段良い。いくら親しいとはいえ、隣国もまた、間諜の調査対象である事に変わりはない。他国からの妃など、どうどうと諜報活動に従事しそうで、私としても歓迎などできない。いくらこの国にゆかりがあろうと」
「ヴァレナード侯爵はどういうつもりなんだ?」
「彼は非常に生真面目であるから、単純に隣国との架橋になろうとしているのだろうな。余計な事をする度合いでいうと、オルガ様によく似ている」

 俺の名前が二度も飛び出したものだから、リボンが上手く結べなかった。そんな俺を見て吹き出すのをこらえるようにしながら、レストが結んでくれた。

「夜会には、ぜひ陛下と――オルガ様に来て欲しいそうだ」
「舞踏会か?」
「いいや。男同士で踊るのは、どこの国でもメジャーでは無いから、オルガ様への配慮だろうが、ただの会食となるようだ。規模から考えるに、恐らくは立食式だ。オルガ様は横に並んで立ち、黙っていてもらえば良いだろう。陛下が全対応をすれば良い」

 宰相閣下はそう言うと、嘆息した。丁度着替え終わった俺が振り返ると、腕を組んでいるのが見えた。ルカス陛下もまた腕を組んでいる。

 そちらに行くのが躊躇われると思っていたのだが、レストが俺の背中を促すように押した。結果、俺はそのまま、ルカス陛下の隣に座る事となった。

「おはようございます、オルガ様。聞こえていたとは思うが、まぁ、そういう事態だ」

 宰相閣下は俺を見て、スッと目を細めた。レストが俺の前にも紅茶を置く。

「他の妃候補が出てくるというのは、今後も想定される事態だ。候補段階で断るにしろ、あまり嫉妬などしないようにな」
「全然大丈夫です!」

 俺が断言すると、宰相閣下が今度は複雑そうな顔になった。そして、ちらりとルカス陛下を見た。

「随分と温度差がありますな」
「今日その温度差をなるべくなくすべく頑張ろうとしていたら、宰相が入ってきたんだ」
「それは申し訳ないことを」

 しらっとした口調と眼差しで宰相閣下はそう言うと、ルカス陛下から顔を背けて、今度はレストを見た。

「当日は、付き人の中に混じってくれ」
「承知致しました」

 頷いたレストに、大きく頷き返してから、宰相閣下は改めて俺を見た。

「ヴァレナード侯爵自身はわきまえている方だが、参加する貴族はその限りでは無い。一般民衆とも異なり、男のお前には、嫌味や辛辣な冗談を放つ可能性がある。聞き流すように。気分を害しても、あまり事を荒立てるな」

 それを聞いて、俺は怖くなり、思わずルカス陛下の袖を握った。
 すると――ルカス陛下が硬直した。何だろうかと視線を向けると、顔が緩んでいた。

「俺が守ろう。誓う」
「? 護衛はレスト達がしてくれるんですよね? 大丈夫です多分」
「いや、俺が守る」

 ルカス陛下が、俺の言葉に対し、守ると何度も繰り返した。そんなに夜会とは魔窟なのだろうか? 恐ろしくなって俺は、改めて宰相閣下とレストを見た。二人は顔を見合わせている。

 そこへ、朝食が三人分運ばれてきた。俺達は、話を続けたままで、その場で食事をする事になったのである。ふわふわのスクランブルエッグを食べながら、俺はそれからも話を聞く事になった。

「しかし、この国でも絶世の美女として名高かったミルゼ様の御子息だからなぁ……隣国からも、たぐいまれなる美しさを誇る王子殿下として、ユーディス殿下の噂は届いていたんだ。ルカス陛下が陥落する事は無いようだが――うーん」

 宰相閣下もまた卵を食べながら、何やら難しい顔をしている。
 ルカス陛下はフォークを手にしたまま頷いた。

「ああ、絶対にない。俺は一途なんだ」
「そういえば、ルカス陛下は好きな人ができたんでしたっけ」

 そこで俺は思い出した。朝俺にキスをしていたが、ルカス陛下には好きな人がいるらしいのだ。先日俺はカマをかけたではないか!

「ん? 一体、今お二人はどういった状況なんだ?」

 すると宰相閣下が、胡散臭いものを見るような顔で、俺とルカス陛下を交互に見た。

「オルガは鈍い」
「ルカス陛下よりもですか? それは相当だ」
「どういう意味だ、宰相」
「そのままの意味ですが?」

 それを聞いて、俺は首を振った。

「宰相閣下、鈍いのはルカス陛下です。俺はどちらかといえば、鋭いと思います」
「それは勘違いだと思うぞ。決してオルガ様は鋭くはない。しかし陛下が鈍いという部分は適切だな」

 宰相閣下はそう言うと、レストを見た。

「お前から見ると、どうなっている?」
「僕から見ると、とても良い感じなのですが、何かがまだピタリとはまっていないといいますか――あと一つでパズルが完成しそうで、ピースも一つしかないのに、はめかたを間違っているせいで、完成しそうでしていない感じです」
「なるほど」

 俺には、パズルのたとえはよく理解できなかった。しかし宰相閣下は理解したようで、大きく頷いてから、ルカス陛下を見た。

「健闘を祈っております」

 こうしてこの日、俺達は夜会へと出かける事が決まった。朝食は、やはり美味しかった。