【二】夜会とお渡り。






 その日の午後、赤い蝋印――鷹と月と百合のマークが刻まれているもので封をされた、手紙が届いた。

 急遽、側妃お披露目の夜会が開かれる事になったらしい。本来は五日後のはずだったのだが、五日後に急遽、魔獣退治が入ったのだそうだ。今すぐ討伐に行けば良いのに。お披露目会なんて後で良さそうなんだけどなぁ。

 そんな思いで中身を読むと――第二王子殿下からのお誘いだった。パーティーに同伴したいという内容だった。それがいや……もう明らかに、僕に対して甘い言葉で誘いをかけている時点で、これを書いたのは、秘書官だなと分かった。そもそも、そもそもだ。僕が夜会に行きたくないのは、ダンスが下手だからである。二・三度は出かけた事があるが、壁にピタリと背を預けて、眺めていただけだ。

 そんな僕は、要するに、男性側の踊りも出来ない。
 なのに、なのに、なのに……女性側のダンスをするなんて、難易度が高すぎる。

 溜息をついてから、それでも仕事は仕事だからと割り切って、衣装をマークとルクスに整えてもらった。

「よくお似合いですよ」
「有難う」

 ルクスの言葉に微笑したものの、僕は気が重かった。別段、服に興味が無いというわけでは無いが、この日のためにと数日前に商人と仕立て屋さんが着て、散々測定され、僕は行く前から疲れていたのである。装飾具も多く、首飾りや耳飾り、腕輪や指輪を沢山用意された。

 こうして当日――僕は会場へと向かった。
 途中まではマークとルクスが先導してくれたが、控え室の前で二人とは別れた。
 そして控え室で、忌々しそうな顔をしている第二王子殿下と顔を合わせた。

「……」
「……」

 僕達の間に自然な会話は生まれなかった。殿下は相変わらず冷たい瞳を僕に向けている。僕はとりあえず作り笑いを浮かべた。今でも、この相手と結婚したという気持ちにはなれないでいる。だが……一応、僕から話しかけた方が良いだろう。

「……夜会へのお誘い、誠に有難うございます」
「ファブラン侯爵の顔を立てるために、無理に取り巻きの貴族共がセッティングしただけだ」
「そうですか」

 だろうなぁと僕も思う。父はアレでも、大臣なのだ。侯爵家の当主だ。

 機嫌は損ねない方が良いだろう。取り巻きの貴族達の方が、状況をよく分かっているのかもしれない。絶対第二王子殿下は分かっていない。

「白百合様などと呼ばせているらしいな」

 その時、嘲笑するように、殿下が言った。腕を組み、僕を見下すように見ている。僕は殿下の笑った姿は、失笑と嘲笑しか見た事がない。

 しかし……いやいや……勝手に呼ばれているだけだ。
 そんな恥ずかしい呼称、自分から呼ばせるはずがないだろうに。

「自分の立場を弁えろ」
「申し訳ございません」

 ただ機嫌が悪そうだから、とりあえず謝っておいた。なにせ今晩は、嫌だけど、一緒に会場に行かなければならないのだから。仲良くしたいわけではないが、気まずすぎる状態で並んで歩くのも拷問に等しい。少しだけで良いから、態度を軟化させて欲しいと思ってしまった。

 その様にして僕らは会場へと向かった。

 第二王子殿下と僕が入場すると、皆の視線が集まった。素早く会場を見渡せば、僕の父の姿もある。司会をしている文官が、殿下と僕を紹介した。

「ティセラード第二王子殿下と、百合の間の側妃、ユーリ様のご入場です」

 一気に皆に視線を向けられて、僕は居心地が悪いなと思った。ダンスが始まるまではまだ間があるらしく、最初は殿下と僕に挨拶へ訪れた人々の対応に追われた。シャンパングラスを手にした殿下が、嫌そうに僕へと渡してきた。礼を言って受け取ったが、飲みたい訳ではなかった。

「ご機嫌麗しく」
「本当に百合様はお美しい」
「ティセラード殿下は幸せ者ですな」

 貴族達がそんなお世辞を並べていく。終始殿下は不機嫌そうであるので、僕が作り笑いで応対する事になってしまった。父も挨拶に訪れた。

「やはり正妃気取りじゃないか」

 その人波が落ち着いた時、殿下が僕に対して呆れたように言った。僕は、殿下が対応しないせいだと叫びたくなったが堪えた。

 こうして――ダンスの時間が訪れた。ヴァイオリンの調べが流麗だ。

 僕の手を取り、腕を腰に回して、ティセラード殿下が中央へと向かう。僕は慌てて足を動かした。緊張してきた。

 そうして――僕は必死で踊りながら、っていうか踊れないので、魔術で一歩早く回転したりしている女性貴族の動きを模倣した。ティセラード殿下はさすがに慣れているらしく、優雅に僕をリードしてくれたが、それだけではどうにもならないほど、僕のダンスの腕前は壊滅的だったのである。そのため、魔術に頼った。

「女性側のダンスまで習得しているのだから、後宮入りを望んでいたのだろう?」

 ダンス後、馬鹿にするように、殿下に囁かれた。思わず睨みそうになったが、僕はここでも堪えた。

「――踊って頂き有難うございました。僕は少し休みます」

 もう一緒にいるのも嫌だし、踊るのも嫌だ。
 だから僕は、一曲終わってすぐに、壁際まで歩み寄った。
 殿下もそんな僕を引き止めなかった。

「さすがは白百合様、本当に優雅で――麗しい。見事なダンスでした」

 壁際にいると、そんな声が聞こえてきたので、女性貴族よ、有難う、と思った。僕は一番上手い人の模倣を魔術でしただけなのだから。

 ちなみに僕の家が侯爵家になったのは、この魔術のおかげだ。侯爵家は、元来王を守るため、王の右腕となるために存在する。今では名目だけだが。その為僕も幼い頃から魔術の勉強をし、一応今では魔導師の資格を取った。

 この王国には、時折魔獣が出現する。今はだいぶ落ち着いているのだが、昔は本当に被害が酷かったらしい。よって貴族の多くは、武功を立てた者が始祖だ。

 それにしても早く終わらないかな、夜会。

 僕と分かれてすぐ、他の側妃と踊り始めた殿下をぼんやりと見る。現在は、薔薇さんと踊っている。薔薇さんこそ僕と違って、完璧にダンスをしている。模倣等ではない。魔術の気配がしないから分かる。薔薇さんが殿下を見る瞳は輝いていて、頬が心なしか朱い。殿下の方も、僕といた時よりは、瞳が僅かに穏やかに見える。無表情ではあるが。

 大体、僕は一番年上で、それこそ行かず後家と言われてもおかしくはない。実際にはバツイチ子持ちであるが。二十四歳と言えば、この国ではもう、中年扱いだ。

 どうしてまたそんな僕が、側妃に何て……。
 思わず溜息が漏れそうになった時、不意に正面に青年が立った。

「白百合様。宜しければ、私と一曲踊っていただけませんか?」

 誰だろうと思って顔を上げると、見覚えがある顔がそこにはあった。
 だが誰だったか思い出せない。騎士装束だから、騎士なのだろうが。
 首を傾げていると、穏やかに笑った青年が腰を折った。

「第二騎士団にて、畏れ多くも団長の任を拝命している、ルーク・サイファです。以後お見知りおきを」

 その言葉に僕は納得した。第二騎士団は、要人警護が任務だから、何度か父の護衛で我が家に来た事があるのだ。何度か挨拶した事があるようにも思う。

 切れ長の黄色い瞳に、黒い髪をしている。ティセラード殿下と同じくらい顔の作りが端正だ。だが、僕は男の美形を覚えるスキルを持ち合わせてはいない。美女ですら記憶から消えがちだ。あまり顔に囚われる方では無いのである。

「こちらこそ」

 お見知りおき下さい――と、いう意味で僕は言った。
 だが僕の答えに、彼は僕の手を取った。ルークが僕の腰を抱き寄せた。

 ……ダンスは、断り文句を考えていたというのに。

 思いの外、彼は強引である。

 そのまま連れ出され、僕はまた魔術で、女性の踊りを模倣しながら、踊る事になってしまった。本当に疲れる。必死で踊っていると、ルークが言った。

「貴方と踊る事が出来て、夢のようです」
「お誘い頂き有難うございます」
「壁の花は貴方には似合わない」

 そうして一曲踊り終わった後、ルークがシャンパンの入ったフルートグラスを持ってきてくれた。彼は僕の隣に立つと、柔らかく微笑した。

「まさか貴方が側妃になられるとは」

 僕もそう思う。なる予定は、父に打診されるまでゼロだったのだから。

「こんな事ならば、もっと早くに想いを告げれば良かった」

 それにしてもこのシャンパン、美味しいなぁ。僕はもう、酒に夢中だった。つらつらとルークは何事か語っているが、僕は聞いていなかった。

「貴方にずっと恋いこがれていました。後宮をお出になられる予定との事――三年間、お待ちいたしております」

 飲んだらお腹が減ってきた。僕は聞き流すのが得意なので、適当に頷いていたら、ルークは帰っていった。僕は、ルークを見送りながら、やっぱり側妃になるとみんなが近寄ってきて、機嫌を取るものなんだなぁと思った。しかし三年後に出るという予定は、父から聞いたのだろうが、何を待つつもりなんだろう?

 その時――なんだか視線を感じたので気配がする方を見ると、不機嫌そうな顔で、ティセラード殿下がこちらを見ていた。しかし僕は、笑っている姿など見た事が無いので、あれがデフォルトの顔なんだろうと思った。第二王子殿下も大変なんだろうなぁ。


 さて、夜会後――……。

 その日の夜も、ティセラード・ワイズ・コーネリアス第二王子殿下は、僕の部屋へとやってきた。もう酒に酔っているから、話もしたくないのに。なんでこんな、気心も知れず、嫌いな相手である僕の部屋に来るんだよ。他に五人もいるじゃないか。

「何か御用ですか?」

 思わず僕は、率直に聞いてしまった。すると殿下が短く息を呑んだ。それから目を細めた。そしてたっぷりと沈黙を取ってから、唇を動かした。

「……困るんだ」

 入浴によりまとわりついている、甘ったるい香油の匂いに辟易しつつ、僕は殿下の話を聞く事にした。殿下は、テーブルをはさんで、僕の正面に座っている。

「はぁ」

 何が困るのだろうか。話がよく分からない。

「この婚姻の目的は、周囲に同性婚を周知させることだとは聞いているな?」
「ええ、まぁ」
「つまり、お前と俺は同性愛関係になるかもしれないと、周囲は考えている」
「そうですね」
「そのお前が、夜会という人目につく場所で、他の男と話したり踊ったりすれば、変な噂が立てられる。以後、他の男と踊る事は禁ずる」

 確かに――と、漸く気づいて頷いた。ルークの事を言っているのだろう。

「承知しました。今宵は大変失礼いたしました」
「分かれば良い。所でアレは――お前の想い人か?」
「は?」
「側妃になるくらいなのだから、男が好きなのだろう?」

 殿下はスッと目を鋭くして僕を見ている。しかし心外である。僕はこれまで、一度も男性に恋をした事など無い。同性愛者を見下すわけでは無いが、決めつけられるのは気分が悪い。

「いえ。僕には息子もおりますし、女性が好きです」
「本音か? ならば何故、側妃に?」
「父に頼まれました」
「……」

 僕の言葉に、殿下が微妙な顔をした。何とも言えない不思議な顔だった。複雑そうな眼差しで僕を見ている。

「俺に取り入れと言われたのか?」
「いや、とりあえず同性愛のハードルを、貴族間でも下げるために、側妃になれと。三年我慢したら、離縁して良いからと」

 早く三年経たないかなぁと思いながら、僕はマークが淹れてくれたお茶を飲む事にした。殿下が訪れると同時に、マークとルクスは隣の部屋に下がったので、ここにはいない。殿下の分と僕の分のお茶だけは、用意して行ってくれたのだ。

「その様に言って、虎視眈々と正妃の座を狙うのか?」
「いいえ……そんな面倒なのはちょっと。それと叶うのでしたら、次からは他の側妃の方々を夜会に最初から伴って下さい。僕は、ダンスが苦手なんです」
「苦手? しかし――面倒、か……そうか。それは、本音なんだな?」
「はい」
「後から後悔しても知らん」

 殿下はそう言うと出て行った。なんだか気疲れしてしまった。
 ――翌日、陛下が薔薇の間に足を運んだという話を聞いた。
 へぇ、と思った。特に僕に、後悔は無い。



 それから数日が経った。話によると、魔獣の討伐には、第二王子殿下が総指揮をして出かけ、無事に成功したらしい。それは喜ばしい知らせだったが、本日は嬉しくない事がある。

 はぁ……溜息しか出てこない。
 六人全ての側妃全員参加の、お茶会が開かれる事になったのである。

「手土産はいかがなさいますか?」
「適当に見繕って。クッキーとかで良いんじゃないかな。あとさ、お茶の用意を一応お願い。この前、何にも出てこなかったし」
「畏まりました」

 僕はマークとそんなやりとりをした。

 その後、午後の三時に、僕はお茶会が行われるという、今回も東第二庭園へと向かった。薔薇さんはお茶会が好きなのかな?

 到着すると、やはり白いテーブルクロスの上には何もなかった。ただ、何人かが持ってきたらしいお菓子類が並んでいるだけだった。僕はマークとルクスに視線でお茶の用意を頼んだ。そうしながら、座っている人々を確認した。

 目をつり上げている水仙、微笑している紫陽花、相変わらずにこやかな茉梨花、機嫌が悪そうな菫、もう面倒なので心の中では、間とか付けずに花の名前で覚えた僕――多分僕は、無表情だった。心底どうでも良い。正妃争いになんか興味はゼロなのだ。

 こうしてマーク達がお茶を用意し終えた時、薔薇さんが頬杖をついて僕を見た。

「百合様の間には二度、ですが数分しかいらっしゃらなかったそうですね」

 ニヤニヤと薔薇さんが笑っている。何せ僕と殿下とは雑談しかしていないのだし、数分なのは確かだろう。

「他の皆様の所には、一度もお渡りが無いらしいし」

 知らなかった。そうなんだ。僕は時折、マークに聞かされる以外では、殿下の動向などさっぱり知らないし、興味が無いから自発的には情報収集をしようという気にもならない。

「俺の部屋には、一晩中いてくれました」

 あの無愛想な殿下と一晩中一緒にいられるなんて、薔薇さんは凄いな。カップを傾けながら、僕は薔薇さんを尊敬した。

「優しく一緒に寝てくれた。今でも思い出すと体が熱くなる」

 まぁ夏だし、二人で一緒に寝たら、暑そうだ。
 それにしてもマークの淹れてくれた紅茶は、本当に美味しい。
 飲みながら僕は、薔薇さんに向かって頷いた。そして適当に相槌を打った。

「良かったですね」

 すると息を呑んだ薔薇さんが、僕を睨めつけた。え、僕は何か、まずい事を言っちゃったのかな。なんで睨まれてるんだろう。薔薇さんは、非常に不愉快そうに僕を見ている。

「二度お渡りがあった余裕?」

 薔薇さんが顔を歪めて僕に言った。何故だ……僕と殿下の間に何事も無かったというのは、薔薇さん自身が指摘した通りだというのに。それとも違う理由か? 本日は機嫌が悪いのかな?

「特に何も無かったし……」
「数分という話は事実だと?」
「うん」
「……そうして、俺達を出し抜くつもりか?」
「え」

 狼狽えて僕は、周囲を見た。誰も何も言わない。もしかして、僕はみんなにそう思われているのだろうか? 本当は寵愛を受けているのに、隠している的な? いやいや、そんな、まさかね。

 以後、薔薇さんに睨まれながら、茶会は終わった。

 なんだろう、不機嫌の理由は、茶菓子に好みのものが無かったから、とか? 僕は何も、薔薇さんを害するような事をしたつもりはないんだけどなぁ。他の側妃達の事も、勿論害したつもりは無い。だが、ずっと笑っていたギル以外は、みんな僕を冷ややかに見ていた気がする。

 ――もう、お茶会に行くのは、止めても良いかな?

 二回も参加したんだし、十分だよね。



 その日の夜、血相を変えて、マークが戻ってきた。
 手には夕食が載った銀の台車がある。厨房に夕食を取りに行ってきた所らしい。

「ユーリ様!!」

 入ってくるなり、大きな声で名前を呼ばれたため、僕は首を傾げた。

「大変です、殿下が今日は、紫陽花の間にお渡りになるとか」
「何が大変なの?」

 思わず眉を顰めた。訳が分からない。別に大変な事なんて何も無いと思う。そもそも、既に薔薇の間にだって行ったらしいと聞いたし、他の間に行ったって別に良いだろう。

「陛下の寵愛が、移ってしまいます」
「最初からそんなもの無いけど」
「……え? だって、二度もお渡りに……」
「雑談しただけだよ。ああ、隣の部屋にいたから、マークとルクスには会話内容が全ては聞こえなかったのか」
「えっ、何も無かったんですか、これまで。キスとかも?」
「無い無い。それよりご飯にしよう」

 僕の言葉に複雑そうな顔をした後、マークが食事の用意をしてくれた。

 本日は白身魚のムニエルだった。この国では、一度に皿を全て並べて、好きな順番で食べる事が多い。僕はまず、スープを飲む事にした。ミネストローネは僕の好物の一つだ。

「ユーリ様……本当にそれで良いんですか?」
「うん。そもそも僕は三年で出ていく予定だしね」
「……ですが……」

 給仕をしながら、マークが呆れたような顔をしていた。

 僕は素知らぬ顔で、適当に笑って誤魔化す。やはり仕える主には、後宮で権力を持ってもらうのが、侍従の務めの一つなのかもしれないが、申し訳ないけれどその想いには応えられない。そう考えながら、僕はルクスも同じ考えなのだろうかと視線を向けた。

 ルクスは花瓶の水を取りかえてくれていた。

 ――良かった、ルクスはお花が好きらしい。これで生花が枯れる事も防げるだろう。

 そんな事を考えながら僕が夕食を食べていると、マークが溜息をついた。

 なお――その翌日から。

 ティセラード第二王子殿下は、何でも、僕の部屋を除いて、順番に五つの間を回っているらしいと、マークが僕に教えてくれた。僕はマークに教わる話としては、第二王子殿下の動向よりも、その日の食事のメニューの方に意識を奪われがちである。

「ユーリ様、本当にこれで良いんですか? ユーリ様だけ除外されているんですよ?」
「別に構わないし、寧ろ好都合だよ」

 湯浴みを終えてから、僕は薄い夜着の袖に腕を通し、マークに答えた。するとマークが半眼になった。

「国王陛下直々に――というより、第二王子殿下は、後宮に男を迎えるならば、ユーリ様が良いと仰ったらしいと、レナード様は仰っておられましたよ?」

 久しぶりに聞いた父の名前に、僕は首を捻った。

「どういう事?」
「第二王子殿下は、当初、ユーリ様をお望みだったという事です」
「最初の挨拶の時から冷たかったけど?」

 僕は事実を述べた。性格を知って嫌われたとかでは無いはずだ。会って早々に、「お前を愛するつもりは無い」というような事を言われたのだから。

「そ、それは……きっと、第二王子殿下にも何かお考えがあるのでは?」
「だとしてもさ、僕は、僕を嫌いそうで、かつ僕に冷たくする人を好きだとは思えないよ。だから僕は、別にティセラード殿下がどこの間に行こうと興味は無いんだよね」
「ですが、折角の寵愛を得る機会なのに……も、もう少し、ユーリ様から歩み寄ってみては?」

 マークは第二王子殿下を推してくる。しかし僕には、そんな気は無い。

「手紙を書いてみるとか、会いたいとお伝えするとか。話してみなければ分からない事もあるのでは?」
「だから話す気が起きないんだよ……もう良いよ。今日は寝るから」

 話を打ち切り、僕は寝台へと向かった。そして百合の模様が施された毛布をかけて、柔らかな枕に頭を預ける。見上げた天井にも百合を模した意匠が刻まれている。最近では、それらを見ると、落ち着くようになってきた。僕は百合の模様を気に入っている。だが、百合の間にこだわりがあるわけでは、やはりない。別に他の花だって僕は好きになれたと思う。そんな事を考えながら、僕は微睡んだ。

 その内に、マークは何も言わなくなった。呆れたように僕を見る事もなくなり、誰の部屋に殿下が行ったかだけを義務的に報告するだけになった。ルクスは何も言わず淡々と仕事をしてくれる。僕は三年間、この二人とだけ仲良く出来たら本当に満足だ。

 と、言う事で――僕はある日思い立った。

「商人を呼んでもらえるかな?」

 僕の言葉に、マークは珍しいものを見たような顔をした。商人はその日の内に訪れた。僕は、控えているマークとルクスをそれぞれ見やる。

「二人共、好きな品を選んで」

 衣類や装飾具の代金は、一応僕の私費から出せる。側妃にも衣装代は与えられているが、プレゼントだからと僕は自分のお金を使う事に決めた。すると二人は驚いた顔をした。

「ユーリ様がご購入なさるのでは?」
「ううん。マークとルクスに日頃のお礼をしたいと思ったんだよ」

 二人は顔を見合わせてから、どこか嬉しそうに笑った。照れくさそうにも見える。商人もニコニコしていた。今回来てもらった商人は主に装飾具を持ってきたのだが、見れば百合を象った品が多い。茶会の席で見たが、ほかの部屋の侍従も、主の部屋の花と同じ装飾具を身につけている者もいたから、丁度良いかもしれない。

「本当に良いのですか……?」

 ルクスが僕を見て、目を瞬かせている。僕が笑顔で頷くと、ルクスが頬に朱をさした。

「俺はこれが欲しいです」

 マークは、百合の意匠が入ったカフスを手にとった。

「で、では、俺も同じ品を……」

 ルクスもまた、カフスを手に取る。二人の品を見て、綺麗だなと感じ、僕も装飾具をまじまじと見る事にした。僕はその中で、百合モティーフの宝石がついた細い鎖の腕輪に目を惹かれたので、自分用にはそれを購入する事に決めた。

 その後商人から品を受け取り、彼を見送った後、お茶をする事にした。
 こういう日常こそが平和で幸せだ。まったり過ごす分には、後宮も悪くはない。

「有難うございます、ユーリ様」
「有難うございます……俺、頂き物をするなんて、生まれて初めてで……なんとお礼を申し上げたら良いのか」
「二人共気にしないで」

 穏やかな気持ちになりながら、僕はマークが淹れてくれた紅茶を飲みつつ、ティスタンドを見た。茶会の席よりずっと僕の部屋のお茶の方が良いと思う。スコーンを手に取り、僕は微笑した。後宮の良い所としては、菓子類も比較的美味しい事だろう。

 少しずつではあるが、僕は後宮での生活に慣れてきた。

 本来後宮は、第二王子殿下が足を運ぶ所であるというのは分かるが、僕の生活の中にはそれは存在しない。存在して欲しいとも思わない。穏やかに過ごせる事こそが、僕の望みだ。この調子ならば、無事に三年間を乗り切る事が出来そうである。そんな事を考えた昼下がりだった。