【五】忘れ去られた側妃。(★)
それから一年半くらいが経った。
殿下は、体を重ねるようになって一年ほど過ぎた頃から、僕の所には足を運ばなくなった。多分、飽きたんだろう。つまり、もう半年ほど、僕の部屋には来ていない。
今となっては、あんまりよく分からないが、多分僕は、殿下に恋をしていた。体から始まった恋だ。だが、今でもしっかりと、愛していると感じている。しかし恋が始まったと自覚した頃から、殿下は僕の元へは来なくなってしまった。
始めは、魔獣討伐の事後処理が忙しいという話だった。だが――そのまま殿下は、顔を見せなくなったのだ。理由は、その直後に、これまでよりも大勢の側妃を迎えたからである。人質の他に、人脈作りなどで、一気に大量の輿入れがあったのだ。最初はその各部屋に挨拶回りに出かけていたらしい。そう聞いていた頃は、僕はまだ、平静を保つ事が出来ていた。増えすぎた為、塔には現在、天候の名前を冠した部屋まで出来たらしい。
だが、それが落ち着いたと聞いた頃になっても、殿下は僕のもとには顔を出さなかった。
僕は――忘れ去られたようだ。
それは殿下にもであるが、他の側妃達にも同様である。
現在後宮には四つの派閥があるらしい。
一つ目は、殿下が僕を抱く前に足蹴く通っていた葡萄の部屋の側妃。
二つ目は、公的な場で正妃の代わりをしている薔薇の間の側妃。
三つ目は、同じく公的な場で正妃の代わりをしている菫の間の側妃。
四つ目は、現在殿下が足蹴く通っている白雪の部屋の側妃。
今現在、一番正妃に近い場所にいると言われているのは、白雪の部屋の主である、スノー・ブランシェ子爵子息だ。黒い髪に黒檀のような瞳をしている。何でも出会いは、雪の降りしきる宮殿の庭だったそうだ。儚く消え去りだったスノー様に、殿下は一目で惚れたらしい。スノー様は、今年で十七歳になるそうだ。
そう――やはり、殿下は僕に対して恋心など持っておらず、僕に愛しているなどと言ったのは、閨での睦言以外の何者でも無かったようなのだ。
僕はと言えば、何処の派閥に属するわけでもない。
ただあと半年乗り切れば、ここから出て行ける。いくつか降嫁の話は来ている。殿下の側妃だったとなれば、いくらでも貰い手はいるらしいのだ。その一人が、ルーク・サイファ第二騎士団長である。僕が仮に女性だったら、是と頷いたかも知れない。政略結婚など、ありふれているし、彼は僕の父とも仲が良いのだ。だが僕は、誰かとこれ以上再婚したいとは思わない。胸の中には、既にティセラード殿下がいるからだ。
ちなみに僕は、引きこもって暮らしているというのに、悪名高い側妃と言われている。
――殿下の気持ちは最早明らかなのに、百合の間を譲らないから、と。
打診されたらいつでも譲るのだが、打診されていないのに、引っ越すわけにもいかない。
なんだか疲れたし、庭でも散策しよう。
自分の庭は、もう見過ぎて飽きていたので、公共の庭へと向かった。王家直轄の庭園だ。現在の王妃様の庭園である。王妃様の庭園も、百合が咲き誇っている。僕の庭園に似ているのだが、薔薇もまた咲いているし、本当に様々な花がある。ここの庭園に咲く花から、最初の六名の側妃の部屋の意匠は選ばれたらしい。ただ百合だけが特別で、王家の紋章だからという理由で、百合の間は特別視されているし、王家の一員であるからこそ、王妃様のこの庭園でも百合が一番目立つ。こちらには、果実はあまりない。
本日はなるべく一人で回りたいと思ったので、マークとルクスは、だいぶ後ろをついてくる。僕は遠目に見える池を目指して歩いた。あの池には、魚が泳いでいるのだ。幻想的な銀色をしている魚で、眺めていると、まるで星空を見ているような気持ちになる。
池まで到着した時――僕は先客がいる事に気がついた。一人の幼い少年が、しゃがんで身を乗り出している。誰だろう? 始めはそう思ったが、すぐに、危ないと思った。黒い髪をした幼子は、池に向かって手を伸ばしている。五・六歳だろうか? 僕は声を掛けようと思った。どう考えても危険だからだ。そう考えた時だった。
「危な、っ!」
池に、その少年が落ちたのである。零れ落ちそうなほど大きな瞳を見開き、ドボンと頭から少年が池に落下したのだ。焦って僕は、池に飛び込んだ。助けなければ、死んでしまう。慌てて泳ぎ、僕は少年に手を伸ばした。そうして抱き寄せて、僕は池の周囲の石を掴んだ。先に少年を上に登らせてから、僕も池から出た。僕であっても、池は深いと感じたから、本当に危ない所だった。ずぶ濡れになった僕は、少年を見る。すると端正な顔をした少年は涙ぐんでいた。
「大丈夫?」
「うん……有難う」
「無事で良かった」
僕が微笑すると、少年が目を丸くした。そしてはにかむような表情に変わった。既視感がある。僕はよく似た顔を知っている気がした。
「ユーリ様!!」
そこへ、血相を変えてマークとルクスが走り寄ってきた。
「ご無事ですか?」
「うん。水も飲んでないみたいだけど、すぐに介抱してあげた方が良い」
「それは何よりですが――貴方の事を心配しているんです! ユーリ様も大丈夫なんですね?」
マークが眉を顰めた。ルクスも険しい顔をしている。
その時の事だった。
「第二王子殿下のご子息を池に落とすなんて最低ね!!」
「マーサ!」
少年が、叫んだ女性のもとへ走り寄っていく。服装からして、少年の乳母らしい。
僕を糾弾しているマーサという名の乳母は、眉を吊り上げている。それを困惑したように、少年が見ていた。僕は彼女の言葉から、この子が、ティセラード殿下のご子息である、アーネスト殿下だと理解した。
「この事は、第二王子殿下にも報告させて頂きます」
「は? 目を離したのはお前だろ」
マークがくってかかるが、気にした様子もなく、ご子息を伴い乳母は帰っていった。乳母は終始憤慨した様子だった。その時、茂みが揺れる音がしたので、僕は一瞥した。しかし誰の姿も見えなかった。
「……何故何も言わないのですか?」
するとルクスが淡々と僕に聞いたので、僕は視線を戻した。
「ご無事だったんだから、良いよ」
苦笑した僕に、マークとルクスが、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
――その日の夜、僕の部屋に、久しぶりにお渡りがあった。
最高の香油が垂らされた浴槽に浸ってから、ルクスが用意してくれた服を着る。
「おい」
ノックもなく入ってきた殿下の顔は険しかった。乱暴に扉が閉まる。
「アーネストを池に落としたというの本当か?」
「……」
僕は顔を背けた。ティセラード殿下は、僕がアーネスト殿下を池に突き落としたのだと思っている様子だ。非常に冷淡な眼差しだったから、心が痛んだ。だが、それ以上に、久しぶりに顔を見られた事が嬉しくて、自分の感情を上手く整理出来無い。
「事実なのか?」
「……その」
なんと答えれば良いのか分からない。勿論事実では無いが、殿下は怖い顔をしているし、僕を疑っているのだろうから、これ以上怒らせるような事は言いたくなかったのだ。僕は、殿下に嫌われたくないと、はっきりと思っていた。なのだから否定するべきなのだろうが、上手い言葉が出てこない。僕は緊張から身を固くしていた。
「――俺の気がひきたいのか?」
「……」
「それが望みならば、抱いてやる」
吐き捨てるように言った第二王子殿下に服を剥かれ、僕は無理に寝台へと押し倒された。
手首を痛いほど強く握られ、苦しくなる。
「痛ッ」
「何故何も言わない?」
そう言うが早いか、僕はいきなり後孔に、殿下の陰茎を挿入された。まるで強姦されているかのような衝撃を受けた。久しぶりに受け入れる為、僕の体が痛みを訴える。
「うっ」
慣らされるでもなくいきなり入ってきた巨大な男根に、僕は藻掻いた。行為自体が久しぶりな事もあって、体が悲鳴を上げたのだ。だが――もたらされる痛みすら、僕は嬉しかった。殿下と繋がれる事に、全身が歓喜していた。
「……あ、あ、ああ……ぁ、ァ……」
「俺にこうされたかったんだろう?」
嘲るように殿下が言う。それは――否定できないかも知れない。
僕はずっと、殿下を一人この部屋で、多分待っていた。
しかし……哀しくなって、唇を噛む。この事件が無ければ、殿下が僕の元へ訪れる事は無かったのだろうなと、嫌でも感じさせられた。
殿下は乱暴に僕の体を暴く。無理に激しく抽挿された。すると、嬉しい事は嬉しいのだが、体が軋むように痛んだ。心も辛い。
「痛っ、や、やめ」
奥まで深く貫かれ、僕が声を上げた時、首筋に吸い付かれた。
ビクンと体が跳ねたのを、冷たい表情で殿下が見ている。
「ここが好きなんだったか。後は、耳か」
呟くように言った後、殿下に左耳の奥へと舌を差し込まれた。
「う、あ」
ゾクゾクと体が震え始める。体勢を変え、僕を後ろから抱きかかえるようにして、殿下が笑う。そそりたった陰茎が、僕の中へとより深く入ってきた。
「あ、はぁッ、うう」
「後は――ここか」
「ひ、んァ――!!」
そのまま内部の感じる場所を突かれ、僕は目を見開いた。それまでの痛みを塗り替えるような快楽が、一気に襲いかかってくる。
喉が酸素を求めて震えた。
そうして何度も突き上げられ、両乳首を殿下に嬲られ、僕は苦しさと、思い出した悦楽に嬌声を上げた。僕の両足の指先が、何とか快感を堪えようと丸くなる。
ゆるゆると腰を動かされ、気づくと僕は、中だけで達していた。久方ぶりに感じる絶頂に、僕はギュッと目を閉じる。
「あ、ああっ」
涙が溢れるのを何とか堪えようとするのに、それが出来ない。
そのまま三度ほどドライで、僕はイかされた。ゾクゾクと体が震える。射精していないのに、確かに僕は、達していた。射精したのは、ゆっくりと殿下に前を撫でられた時だった。精を放ち、僕はぐったりと殿下に体を預ける。
「うァ」
すると顎を持たれて、顔を殿下の方に向かせられた。
そして涙を舐め上げられた。なんだか胸が苦しくなって、僕は目を伏せる。
「……何故、ここまでされて、否定しない?」
「え、ぅあ?」
朦朧とする思考で、僕は殿下を見据えた。
「乳母の不注意だったと、他の側妃が言っている。見ている者が居たんだ」
「……そうですか……っ、あ、ああっ、殿下、ぬ、抜いて」
「嫌だ」
「ああっ」
硬度を保ったままの陰茎に、再び感じる場所を突き上げられ、僕は怖くなった。再び何かが――快楽がこみ上げてきたからだ。
「お願いです、う、も、もう」
「俺は、お前の気持ちが分からない」
「ひっ、ああッ、ア」
「側妃だから俺に抱かれるのか? それとも、お前の父親が望むから、か?」
「ううッ……ハ、ああっ」
「お前とあえて離れている今にしても、だ。お前からは、会いたいの一言も無かった。他の側妃は手紙を、これでもかと言うほど寄越すのにな」
「で、殿下、っ、ぼ、僕また……ンあ――!!」
「俺に抱かれるのは嫌か? さっさとここから出て、あの騎士と結婚するつもりか?」
「な、何を仰って……ん、ッあ、ああっ」
快楽で訳が分からなくなってきた。ただ体の熱だけが理解できる。
その時、殿下が僕の前に触れた。
優しい指先の感触だけで僕は再び果て、意識を落としたのだった。
翌朝目を覚ますと、既に殿下の姿は無かった。
僕は昨日の幸せが夢だったような心地になりながら、入浴した。すると鏡には、点々とキスマークが散る僕の体が映ったから、やはり夢では無かったのだなと確認した。
「殿下は……また来てくれるようになるかな……」
お湯に浸かりながら僕は呟いたのだが――結局その夜も、その次の夜も、殿下が僕の部屋へと訪れる事は無かった。
――スノー・ブランシェ子爵子息……白雪の部屋だから、白雪さん……から、会いたいという連絡があったのは、それからすぐの事だった。他の側妃と顔を合わせるのは久方ぶりである。最近殿下が熱心に通っていると噂の側妃だ。
僕は、いつでも歓迎するという旨を返信した。封筒に入れて、蝋印をして、マーク経由で届けたのである。すると三日後、白雪さんが、百合の間へと訪れた。
「お初にお目にかかります、白百合様。スノー・ブランシェ子爵子息です。宜しければ、スノーとお呼び下さい」
やって来た白雪さんは、黒檀のような髪と瞳をしている、まだあどけなさの残る美少年だった。今年で十八歳になるのだったか。端正な顔をしていて、大きな瞳に長い睫毛をしていて、華奢だった。どこか守ってあげたくなるような、繊細な美貌の持ち主だった。
「初めまして、ファブラン侯爵家の次男で、ユーリと申します。宜しければ、僕の事はユーリと」
挨拶をしながら、僕は自分の容姿について振り返った。僕はもう二十五歳という良い年であるから、美少年と競うなんて馬鹿げているが、僕も白雪さんと同じくらい可憐だったら良かったのにと、つい比較してしまった。
「実は、ずっとお話をしたかったです。それであの日、王妃様の庭園にお出になると聞いて、僕はユーリ様に会いたくて、僕も庭園に行く事にしたんです。そうしたら、アーネスト殿下を、乳母が放置している事に気づいて……池に落としたなんていう嘘偽りを述べたと知った時は、本当に腹が立ちました。それで、ティセラード殿下にお伝えしたんです」
そういえばと、あの日茂みが揺れていた事を、何とはなしに僕は思い出した。そうか――見ていてティセラード殿下に冤罪だと伝えてくれたのは、白雪さんだったのか。儚く笑っている白雪さんは、心根まで優しいらしい。嫉妬している僕は、自分が浅ましくなった。
何一つ、僕は白雪さんには勝てそうにない。なんて良い人なんだろうと思ってしまった。ティセラード殿下が恋をしたと聞いてもすんなりくる。僕は、二人の仲を応援した方が良いのだろう。だがそう思えば胸が苦しくなってくる。そんな思考を振り払い、僕は尋ねた。
「僕と話したかったというのは? 何か御用があったんですか?」
僕が問いかけると、白雪さんが穏やかに笑った。
「いつもティセラード殿下から、ユーリ様のお話を聞いていて、一度お会いしたかったんです」
「そうですか……」
ティセラード殿下は、僕を忘れているのだと思っていたから、少し意外だった。そして覚えられていた事が無性に嬉しいと感じる自分に、悲しくなった。同時に、本当に白雪さんのもとへ通っているんだなと確認し、やはり浅ましくも嫉妬してしまい、僕は自分が情けなくなった。
恋をすると、人は醜くなるのだろうか。僕は、自分の内側の激情を堪える事に、必死になってしまった。
「ユーリ様は、お優しい方ですね」
「いいえ、そんな」
僕の内心を知ったら、きっと白雪さんは、僕を軽蔑するだろう。
「アーネスト殿下をお助けになったのに、ただ無事だけを喜んでおいでで……他の側妃だったら、アピールして回っていたと思いますよ。正妃になった場合は、アーネスト殿下の義理の親ともなるわけですし」
「別に僕は、正妃になりたいわけではないので」
それだけは、変わらない思いだ。僕はティセラード殿下が好きになってしまったわけではあるが、決して正妃になりたいわけではない。ティセラード殿下に会いたいが、とても正妃の仕事が務まる気はしない。夜会も嫌い、茶会も嫌い、寝てばかりいるのが僕だ。
「ユーリ様は、ティセラード殿下を自分だけのものにしたいとは思わないのですか?」
僕は返答に困った。正直――そういった想いはある。だが、正妃となれば、独占出来るとも思わない。後宮が開かれている以上、殿下は皆のものである。僕だけのものとなる事はない。そして……僕が正妃に選ばれる事もないだろうから、僕も『皆』の側に入るのは間違いない。ただそれも、その他の大多数の一人に過ぎないだろうから、僕にとっては辛いだけの結果だ。僕は、段々、この悲愴を喚起する情動に耐えられなくなりつつある。
「別に」
僕は特技の作り笑いで、そう述べた。言葉を取り繕ったのである。すると白雪さんが苦笑した。
「ユーリ様とティセラード殿下は似ておいでですね。素直ではない所が」
そう言うと、白雪さんは帰っていった。
見送ってから、僕は辛くなって、俯きながらソファに座った。深々と背を預ける。マークが新しい紅茶を用意してくれた。
僕は自分の醜い感情にも恋の辛さにも耐えられないから――だからこそ、後宮を早く出たい。残り半年間ほどの我慢……そうすれば、愚かな己ともう向き合わなくて済むと思った。僕は、逃げ出したいのだ。ファブラン侯爵家の家訓に、逃げる事は恥ではないというものがある。僕は何度もその言葉を思い出した。
――以後も、ティセラード殿下が、僕の部屋に来る事は無かった。