【五】温室(十六歳)
週に一度の通学になったので、知り合いも増え始めた。特にあまりこれまで関わりのなかった上級生と話をする機会が増えた。留学生も多い。特に隣のラズラ帝国からの留学者が多い。僕はやっと生徒会という謎の雑用係の仕事から解放されたので、最近では放課後は穏やかになった。逆に、ゼルス殿下派(内部の僕派)などの交流会などが増加してきたので、お茶をする毎日である。
なお、僕は父上から、二つ上の学年に、隣国の皇族が留学中だと聞いていた。ただお忍びできておられるそうで、僕でもその人が誰なのかは特定できないでいる。
さて。
ゼルス殿下であるが、また恋に忙しくしておられる。それもあって、僕との卒業パーティでの一幕は、即座に忘れ去られた――と、僕は思っていた。
そろそろ僕も真剣に許婚となってくれる人を探さなければならない。
授業後、僕は魔導カメラで撮影してある写真を眺めていた。
「何を見ているんだ?」
すると珍しくゼルス殿下が声をかけてきた。
「あ、いいえ別に」
「なんの写真だ? 朝から休息の度に熱心に見ていたが」
「……」
何故見ているところを見ていたんだろうか、この人は。僕が沈黙していると、ゼルス殿下が腕を組んだ。
「言え」
「……許婚の候補です」
「なに? なんのために?」
「結婚するため以外にありますか?」
許婚とは、結婚相手だという認識が間違っているのだろうか? 僕は純粋に疑問に思ってつい聞き返した。するとゼルス殿下の顔が険しくなった。だが、直後何かを思いついたかのように、意地の悪い顔でにやりと笑ってから、続いて公務時に見せる冷静な表情となり、よく通る声を放った。教室中の視線が集中する。
「王国広しといえど、メリクスの媚薬を自ら服用して、俺を押し倒して子種を求めて泣いてすがって、俺の気持ちを確認しようと必死になるのなど、お前くらいのものだと思っていたがなぁ。最近も俺の周囲への嫉妬が酷いと耳にし、俺もくぎを刺しておこうとは思っていたんだ。カルナ、俺の気を惹きたいからと言って、許婚を作るなどと騒ぎ立てるのは、哀れでならない」
僕は最初何を言われたのかわからなかった。
教室中がシンっと静まり返った。
「長い付き合いでなかったならば、今頃幽閉していた。家柄と時間に感謝することだな」
ゼルス殿下はそう言って最後にもう一度笑うと出ていった。
……この日から、僕は遠巻きにされるようになった。
当然である。僕と関われば、ゼルス殿下の怒りがついてくる可能性が高い。
派閥は消え去り、僕は従者二名以外とは、学内でほとんど話さなくなった。なお従者二名も必要な事しか言わないので、ほぼ無言である。
もう泣きたい。
噂は独り歩きをはじめ、ゼルス殿下が誰かと恋をすれば、その相手は僕に嫉妬されていると怯えるようになっているらしい。今誰と恋をしているのかすら僕は知らないのに。
……。
そんな僕にとって教室は針の筵になってしまったため、僕は登校すると、自由時間はほぼ八割、一階の温室で過ごすようになった。
「はぁ……」
まぁゼルス殿下とは距離を置く予定ではあったので、それが少し早まっただけだとは言え、正直今の状況はとてもつらい。
「どうしたんだ? 溜息なんてついて」
そのとき不意に声がかかった。いつも無人であるから油断していたのだが、この日は先客がいた。僕は瞬時にネクタイの色を見て、その相手が先輩だと判断した。
「失礼しました」
「いや――たまに見かけた事があって、話してみたかったんだ。疲れているように見えるが、何かあったのか?」
「……僕の事をご存じないのですか?」
「貴方の口からは、まだ名前すらもうかがっていないぞ? 失礼した、俺はリュクス。魔術専攻だ」
「……」
「名乗りたくなければ、それで構わない。お茶でもどうだ?」
「……カルナと申します」
「カルナ、か。いい名前だな」
笑顔の優しそうな目をした先輩は、僕に紅茶を振る舞ってくれた。
ほっとする味がした。僕は、知らない人から振る舞われたお茶を飲むべきではないと思いつつも、投げやりな気分だったので、ありがたくいただいた。
――この日から、僕が温室にいくと、高確率でリュクス先輩も姿を見せるようになった。僕は久しぶりに、会話が楽しいという経験をした。リュクス先輩は僕の一歳年上なだけなのに、大人だった。ゼルス殿下みたいなわがままは言わない。優しいが芯はある。たまに意地悪でもあるが、僕の話をじっくり聞いてくれた。僕は自分の話を誰かにこんなにもしたことはなかった。
だから話に夢中で、その日、さらにもう一人誰かが来た事にも、声をかけずに去った事にも気づかなかった。
「行ったか」
「へ? 誰がですか?」
「いいや、こちらの話だ」
と、そんなやりとりをしていた夜――僕はゼルス殿下に久しぶりに呼び出された。
王宮に馬車で向かった僕は、陰鬱な気持ちで、ついに何か罰や処分が下るのだろうかと考えていた。すると人払いしてある私室に招かれて、座っているゼルス殿下と対面する事となった。
「お呼びでしょうか?」
「ああ。以後、卒業まで温室に立ち入ることは一切禁ずる」
「――え?」
「以上だ。帰れ」
「……? はい」
不可思議な命令ではあったが、僕は頷いた。リュクス先輩にはもう会えないが、同じ学内にいるのだから、その内遭遇する事もあるだろう。僕はそう考えていた。
こうしてまた僕は一人になった。
そんな時、従者が二名とも入れ替わった。なんでも僕の悪逆非道な行いが酷すぎるから監視を兼ねるのだという主張で王宮がかえさせたそうで(即ちゼルス殿下だ)、今は近衛騎士も学院に立ち入りが可能だから問題ないという事になり、僕には従者という名の監視が二名つくようになった。二人とも前の従者達以上に寡黙である。
最近は食事の味がしない気がする……。
僕は鬱屈とした心地で、本日も監視されている。
その時だった。
「カルナ」
声がかかったので顔を上げると、リュクス先輩の姿があった。僕は静かな図書館に従者二人と三人で座っていたから、突然の事に驚いた。従者二人も虚を突かれている。
「久しぶりに話がしたいんだ」
「え、ええ……ありがとうございます」
「そこの二名も良いな? カルナと二人にしてほしい」
無理だと思った。
「――ですが」
「それは……」
しかし、従者二人が視線を交わしている。僕はその反応に驚いてしまった。
「ゼルス殿下の許可は得ている。確認してもらって構わないぞ」
笑顔のリュクス先輩がとどめとばかりに放った言葉に、従者二人がガタリと立ち上がり、一礼して去っていった。
「えっと……」
「場所を移そう。ここは静かにする場だからな」
それを聞いて、僕は頷いた。ゼルス殿下の許可もあるのだろうと考えたことが大きい。
僕はそのまま先輩について廊下を歩いた。先輩は螺旋階段を上がっていく。
「ゼルス殿下には、どのような許可を?」
「うん、この中で話そう」
「はぁ……?」
僕は塔の一室へと促された。そこには紅茶の用意がしてあって、温室での懐かしい香りを思い出して、涙腺が緩みそうになった。
「座ってくれ」
「失礼します」
「ほら、どうぞ」
以前と変わらない様子でリュクス先輩が、僕に紅茶を振る舞ってくれた。一口飲み僕は笑おうとして――目を見開き息を詰めた。魔力の気配がしたと思ったのは、飲み込んでしまった後だった。
「ゼルス殿下に許可を取ったというのは嘘だ。彼が俺に許可をくれるとは思えない」
そのまま僕の意識は暗転した。
「あ……」
僕は目を覚まし、最初自分がどこにいるのかわからなかった。視線をさまよわせてからようやく、そこが塔の一室だと理解した。僕は拘束されている。縄抜けは習っているが、紐はきつくないのに抜けられないようになっている。少なくとも僕をここに縛り付けた人間は、玄人だとすぐに判断できた。
「……」
そうだった。僕はリュクス先輩が淹れてくれた紅茶を飲んで、意識を落としたらしい。
「気が付いたか。本当に麗しいな、カルナは」
正面から声がしたのでそちらを見れば、リュクス先輩が微笑して立っていた。
「僕はエゼキリア公爵家の嫡子です。すぐに解放してください」
僕の身分を知らない可能性を最初に考えた。だからそう告げた。だが、すぐにゼルス殿下の名前を出していたのだから、知っているはずだと思いなおす。
「悪いな、それはできない」
「貴方がただではすまない」
勿論、この状況下では、僕の方としてもタダで済ませるつもりはない。
「そうかな?」
だが、リュクス先輩は余裕たっぷりに笑っている。僕は目を瞠った。そしてその反応から――蒼褪めた。
「まさか」
一つ上の学年の魔術専攻には、帝国皇族が留学している。
それがリュクス先輩であるならば、エゼキリア公爵家よりも格が上だ。また隣国と戦争を起こすわけにはいかないから、王家も沈黙するだろう。
「メリクスの媚薬の話を耳にして、興味を持ったんだ。俺には、カルナがそのようなことをするとはとても思えなくてな」
「え?」
ひょいと、リュクス先輩がポケットから、嘗て僕が飲んだ媚薬の瓶を取り出した。
「もし貴方が噂通りの人間なら、俺が相手でも構わないだろう? 男なら誰でも構わないほど嫉妬にくるっているという話だ。俺も男だ」
「そ、それは……――、――リュクス殿下、僕に相手をしろと?」
「俺の身分に気づくのが早かったな。聡明だな。そういうところも俺は気に入っている」
「おやめください……」
一歩、二歩と、リュクス先輩が歩み寄ってきた。僕は媚薬の瓶を凝視した。震えがこみあげてくる。
「止める気にさせてくれ」
「ど、どうすれば……?」
僕が問いかけると、リュクス先輩が綺麗な笑顔を浮かべた。
「ゼルス殿下には、貴方を誘拐したと、きちんと脅迫状を送っておいたぞ。今頃必死に探しているだろうな」
「っ……ゼルス殿下を脅迫……? 僕にそんな価値は――」
「あるさ。エゼキリア公爵家のご子息、であるだけでなく、ゼルス殿下が大切に大切に囲っているたった一人の人間は、貴方だろう?」
「……」
まずい。これでは、僕のせいでゼルス殿下が窮地に立たされているという事だ。僕こそが、王家にとっての害だ。こんな時に、エゼキリア公爵家ではする事は決まっている。それは幼少時から叩き込まれてきた教えだ。僕は一度目を閉じた。そして開いてから、改めてリュクス先輩を見た。
「――リュクス殿下。僕でよろしいのでしたら、手と口でご奉仕させてください」
僕が努めて冷静に言うと、リュクス先輩が息を飲んだ。それから思案するように一瞬瞳を揺らす。
「手の拘束だけで構いません、解いていただけませんか? このままでは何もできませんので」
「それが貴方の結論か? 本当に?」
「ええ」
「代わりになんだ? 脅迫状を撤回しろと?」
「……それはご自由になさってください。僕には帝国皇族の方のご判断に口を出す権利はありません」
「そんなにゼルス殿下が大切か?」
「……いいえ。今この瞬間は、僕のすべてはリュクス殿下ただお一人のものです」
「その台詞は響くものがあるな。しかし……そうだな……手、か」
リュクス先輩はそう呟いてから、嘆息した。そして歩み寄ってくると、僕の手枷を外してくれた。そして再び迷うように瞳を揺らした。僕はその隙を見逃さず、いつも自害用に持っていた短剣を取り出して、己の首をかき切った。