【第二話】日常の終わり
「な」
目を見開いた昼斗は、エアコンの表面よりもさらに白い機体を直視した。
一階にあった昼斗の部屋の大半を、落下してきた頭部が破壊している。ガラス片や木片、コンクリートや砂埃が、それまでローテーブルの上に詰んであった、課題の資料と共に風に舞っている。
瞬きをして現実確認をしてみた昼斗だったが、壁の一角から覗く青空は、紛れもなく自然のものに思えたし、かといってそこに存在する巨大な――人型のロボットと評するしかないフォルムの物体もまた、幻覚には思えなかった。
「……」
しかしながら、人型の巨大なロボットなど、少なくとも開発されたというようなニュースが、この世界で報道された事は一度もなかった。無論、昼斗も知らない。
人間とは、信じられない出来事に直面した際、まず夢か疑うのかもしれない。
昼斗もたっぷり五分は、座ったままで硬直し、白い機体を見ていた。
続いて立ち上がり、一歩、二歩と、後退った。そのまま後ろ手に引き戸を引いて、隣室へと向かう。テレビの音が響いてくる。芸能人の明るい声が響いてくる。一度唾液を嚥下し、昼斗は振り返った。そこには両親がいるはずだからだ。
「父さん、母さん、あの――」
言いかけて、昼斗は異変に気付いた。真正面に、父のボトムスと同じ柄を纏った脚が、二本揺れている。その時、グチャリと音がしたので、昼斗は視線を上げた。すると、巨大な蟻と表現するほかない存在が、父の頭部を噛み砕いていた。グチャリ、また、グチャリと音がする。父の頭部はかみ砕かれ、そこから流れ出した血液が、シャツとボトムスを赤黒く染めてから、靴下の先に集まり、ポタポタと床に垂れていく。
飲んだ息が喉で凍りつく。
本能的に恐怖を感じ、逃げ場を求めてさっと隣を見れば、そちらでは別の巨大な蟻に、母が貪られていた。
場違いなほどに明るいテレビの音声だけが、日常の色を残している。
しかしそれ以外の全てが、非日常的だった。
蒼褪めながら再び後退し、自室へと戻る。
玄関には、巨大な蟻の間を通り抜けなければたどり着けないが、現在己の部屋の壁は外に繋がっている。動揺しながらもそう考えた昼斗は、巨大な人型ロボットの方へと歩み寄った。機体は、丁度首に当たる部分が開いていて、そこから首のない遺体が、ずるりと床に落下したところだった。視線を下げれば、たった今千切れたばかりらしき頭部が床に合った。周囲には血の臭いが充満している。ここへときて震えが全身を駆け抜けた昼斗は、機体に走り寄った。その位置から壁の向こうを見れば、アスファルトの上を闊歩する巨大な蟻がいた。よく見れば、その背中には透明な翅がある。右手で唇を覆った昼斗は、外界にも逃げ場がない事を悟った。
「嫌な……夢、だな……」
呟いてみるが、その声は震えていた。
背後からは、巨大な何かが蠢く音が響いてくる。明らかに、それは近づいてくる。
――逃げなければ、死ぬ。
そう直感した昼斗は、意を決して人型ロボットへと歩み寄った。そして遺体の隣から機体の中へと入ってみる。最も頑丈そうで、隠れられる場所が、他に見当たらなかったからだ。赤く染まっている座席を目にして震えながら、コクピットの計器類をチラリと見る。
すると、雑音交じりにではあったが、音声が聞こえてきた。
『すぐに……ラムダ……球体に……触れ……エンジンの……』
きっと何処かからの通信なのだろうと判断しつつ、昼斗は正面にあった球体を確認した。操縦桿らしき物の隣に、淡い緑色に輝く不思議な光球がある。
≪死にたくなければ、触った方がいい≫
その時、今度ははっきりと、そんな声が昼斗の耳に入った。
狼狽えつつ、昼斗は手を伸ばす。すると球体に触れた瞬間、その場に光が溢れた。
眩しさで一瞬目を閉じて、すぐに瞼を開けると、機体の頭部がゆっくりと動き始め、人型ロボットのコクピットが封鎖されようとしていた。息を飲みながら自室を見れば、まさに蟻が侵入して来ようとしている。
――間に合え、頼むから、早くしまってくれ。
震えながらそう念じていると、蟻がこちらに気づく直前、昼斗の周囲には機械の壁が出来た。頭部が無事に元の位置に戻ったようだった。それまで無意識に止めていた呼吸をした瞬間、ぶわりと冷や汗が吹き出してくる。それから顔を上げると、正面がガラス張りのモニターのように変化していた。外界が目視できる。
ローテーブルの前に、巨大な蟻がいる。
膝を抱えて座席についた昼斗は、暫くの間呆然と、画面越しに蟻を見ていた。
軽トラックと同じくらいのサイズだ。
世界が広いとはいえ、あのように巨大な蟻がいるとは思えない。そうである以上、やはりこれは、夢なのだろう。そうだ、夢に違いない。昼斗は内心で、何度もそう念じた。なのに冷や汗は止まらず、何度瞬きをしても目は覚めない。
『生存反応を確認しました――煙道一佐! 聞こえますか?』
それまで雑音交じりだった音声が、そこへ響いてきた。昼斗はハッとして、救助を要請できるのではないかと考える。
「助けて……助けて下さい! 蟻が……」
『煙道一佐?』
「違います、俺は粕谷と言います」
『煙道一佐は、何処へ?』
「――この中に乗っていた方は……っ、さっき、亡くなってた」
頭部が無ければ、人間は生きる事が出来ない。
モニターを見れば、やはり首の無い遺体が映し出されている。血だまりと共に。
『どうやって搭乗を? パイロット適性が無ければ、通信すら不可能です』
「そんな事を言われても分からない! 蟻が、蟻が来たから、俺は隠れたんだ! 助けてくれ!」
『――左手にある操縦桿を引けますか?』
「分からない」
『ではすぐに試して下さい。再起動さえ出来れば、こちらで自動操縦が可能です。とにかく、その機体を失うわけにはいきません』
「……やってみる」
左手を伸ばし、昼斗は思いっきりレバーのような操縦桿を引いた。
するとコクピットの中が、より一層明るくなり、様々なライトが点いた。目を瞠っていると、ゆっくりと、しかし確実に人型ロボットが立ち上がった。
『成功しました。離陸します』
「えっ? 俺は、どうすれば――」
『貴方の使命は、人型戦略機エノシガイオスを帰投させる事です』
昼斗は、そう言う事が聞きたいのではなかった。もっと具体的に、『シートベルトを締めるように』といった指示が欲しかった。だが期待できそうにもないので、周囲をチラチラと見渡す。見事に何もない。
《ラムダ・ホロスにリンクしているから、念じれば出てくるが》
すると声がした。通信相手の声は女性だったが、今響いてきたのは、男性らしき声音だ。
「念じる? それってつまり、どういう事だ?」
昼斗が口早に問う。
≪頭の中に思い浮かべる。想像すればいい。それが、存在する光景を≫
それを聞いて、昼斗は半信半疑で目を閉じながら、座席にシートベルトがついている様を創造した。結果、ガチャリと音がして、胴回りがきつく締まった。
「っ、へ? どういう仕組みだ?」
しかし今度は誰の声も返ってはこず、その頃には、人型ロボットは上空まで舞い上がっていた。モニターを見れば、アスファルトの上を我が物顔で歩く巨大な蟻達が見える。
それらはどんどん遠ざかっていき、いつしか街が、山が、小さく変わっていった。
振動は感じなかったが、非常に高速で移動しているようで、少しすると水面が見えた。ダム湖ではない。水平線が視界に入る。
「海……」
そこに伸びるようにして輝いている夕陽の煌めきに、昼斗は目を奪われた。
この時は、やはり思った。
海が、好きになれそうだと。