【十八】悪寒






「ぶほ、っげほ!」

 思わず俺は咽せた。激しく咳き込む、片腕で口を押さえる。

「その反応、露骨ー!」
「黙れ! ヤってない!」
「え? 真面目にか? それはそれで奥手だな。俺、兄上は積極的だと信じてた」

 ダイクが目を丸くした。俺は慌てて水の入ったグラスに手を伸ばし、それを飲み込んでから、呼吸を落ち着けた。

「シュトルフは紳士的だからな」
「惚気か?」
「断じて違う」

 俺がきっぱりと告げて首を振ると、ダイクが楽しそうな顔をした。異母弟がこのように表情豊かである事にも、俺は正直これまで気づいていなかった。

「でも兄上、ずっとずっとシュトルフ卿の事を想い続けてきたんだろう? 念願が叶って、よく抑えられるな」
「う……」
「俺だったら既成事実をすぐに作ったと思う。その辺、兄上はやはり大人で余裕があるみたいだな」

 勘違いである。それはどちらかといえばシュトルフにこそ相応しい言葉だろう。
 しかし否定するのはおかしいだろうと、俺は口を噤んだ。

「それはそうと兄上。聞いたか?」
「何を?」
「何を、という事は、まだ聞いていないんだな。だろうな。今帰ってきたばかりだろうし」
「回りくどいな」

 気を取り直して、俺はムニエルを口に運ぶ作業に戻った。本当に美味だ。肉派の俺でも、この魚はたまらなく好きだ。

「ファイアマギア王国から、ルゼフ叔父上が急遽おいでになるらしい」

 それを聞いて、俺は顔を上げた。ファイアマギア王国は、このアクアゲート王国の同盟国である。隣国だ。なお逆隣はシルフィ帝国である。俺とダイクの父である国王陛下は、男兄弟だけ数えると、三人兄弟の長男だった。次男のリュゼル叔父上が、シュトルフとクリスティーナの父だ。その兄弟の中で一番下が、ルゼフ叔父上で、ファイアマギア王国に婿入りした。

「珍しいな。外遊か?」

 ルゼフ叔父上はファイアマギア王国でも頭角を表し、現在外務大臣を務めているはずだ。

「大方兄上の降嫁と俺の立太子の件の真偽の確認に来るのだろうとは思うけどなぁ。兄上達の婚約がまとまっていなかったら、八割型縁組の打診も持ってきたと思うし、今後持ってきても俺は驚かないかな」
「俺はもう書類を交わしたが、ダイクはクリスティーナとの婚約を急いだ方が良いんじゃないか? いくらアクアゲートが、他国の影響力排除のためにあまり王位継承者に他国の姫君を受け入れないとはいえ」

 それだって最近の風潮だ。国外が忙しない時は、国際的な政略結婚も多々あった。

「俺はクリスティーナしか見ないから問題は無い」
「そうか」
「だがルゼフ叔父上は、前々からシュトルフ卿の後ぞえに、ファイアマギアの貴族を推していただろう?」
「――え?」
「好きな相手の事なのに知らなかったのか?」

 俺には返す言葉は無い。何せ、ちょっと前までシュトルフの好みになど、興味すらなかったのだから。ちなみに母上から与えられた資料には、後ぞえ候補については沢山の記述があった。国内外に候補が大勢いたのは知っている。だがその中に、ルゼフ叔父上が絡んでいる人物がいた記憶もない。バルテル侯爵家の力を発揮している母上の調査に間違いがあるとは思わないが……へぇ。なんだかみぞおちが重くなった。

「だから既成事実は早く作った方がいいと俺は思うけどな」
「それとこれとは話が別だ。第一、俺とシュトルフの関係はもうまとまっているんだ。いくらルゼフ叔父上といえど、今更――」
「でも今、同行者の調整中という話で、迎賓館の担当者連中は忙しなさそうにしてくるし、叔父上が誰かを連れてくるのも間違いないぞ」

 それを聞いた時だった。
 俺の頭の中にざまぁ系小説の情報が蘇った。

 ……。

 そうだ。あの小説において、クリスティーナはダイクと結ばれるエンディングを迎えるのだが、確か当て馬が出てきた記憶がある。その人物は、俺の記憶が定かならば、ルゼフ叔父上が極秘で連れてきたファイアマギア王国の第三王子……!

 俺は慌てて窓の外を見た。本日は寒さが戻ってきて、春だというのに雪が降っている。雨ではなくなんと雪に変わったのだ。俺はそれに気づいた時、次のシュトルフとの会話のネタが出来たと内心で喜んでいたが、そんな場合ではなかった。

 こ、これは――小説の時系列でいくと、当て馬登場場面ではないか……!
 背筋がざわっとした。悪寒がする。

「ダイク」
「なんだ?」
「気をつけるべきは、俺やシュトルフではなくお前だ。クリスティーナを手放すなよ」
「言われなくとも、って、え? ま、まさか、クリスティーナに新しい婚約者を連れてくるつもりだと言いたいのか?」
「可能性はある。ルゼフ叔父上が、甥である俺の婚約破棄の責任を取ると言い出して、それで、それで……それで……」
「絶対に渡さない!」

 ダイクが勢いよく叫んだ。俺も何度も頷く。物語の結末としては、ダイクと結ばれるはずであるが、紆余曲折がある。というか、断罪を回避したのに、クリスティーナの世界であるざまぁ系小説の世界は続いているのか? 一体どこまで続いていくんだ? 俺、いつまでこれに関わるんだ?

 いいや、ただの偶然かも知れない。叔父上は別人を連れてくるかもしれない。兎に角今は、それを祈るべきだろう。

「兄上、俺に協力してくれるか?」
「尽力する」
「そうか。以前では考えられなかったけどな、今は本当に心強いよ」
「いいや、お前のおかげで俺は、シュトルフとその、上手くいったような部分もあるからな」

 俺は取ってつけたようになってしまったが、そう述べた。するとダイクが目を丸くした後、破顔した。

「有難う、兄上」

 ダイクの笑顔を見て、俺は少し気まずさを覚えたが、応援したいのは事実である。