【二十】推し






 近衛騎士に先導してもらい、俺は迎賓館の中でも上等な部屋へと向かった。その間、終始隣を歩くヴォルフ殿下は頬を緩ませていた。顔が崩れきっていなければ精悍と評していいだろうかんばせが、デロデロである。俺をうっとりと見ている……。

 ヴォルフ殿下の部屋へと入り、侍女が紅茶を用意してくれるのを、対面する席に座して俺達は見ていた。ヴォルフ殿下は、ずっとブツブツと呟いていた。

「……ああ……推し。本物……俺の推し」

 言いたい事は色々あるようで特にない。俺にとって『推し』というのは、よく分からないから問題ではない。問題は、断罪の記憶の方だ。

「ヴォルフ殿下」
「なんだ? my|推し《ハニー》」
「……どうぞクラウスとお呼び下さい」
「クラウス! 俺の事もヴォルフと呼んでくれ」

 ヴォルフの顔が融けている。恍惚としたその翡翠色の瞳を見て、俺は笑みがひきつりそうになった。

「分かった。所で、いくつか聞きたい事があるんだ――皆の者、退出してくれ」

 俺は人払いをした。すると僅かに動揺したような空気を出しつつも、使用人達が出て行った。ヴォルフもきょとんとしている。

「なんだ? 俺の好みのタイプは、お前だ」
「聞いていない」
「冷たい! それでこそ俺の推し!」
「――先ほど、俺が断罪されると話していたように思うが、具体的に聞かせてくれないか? どういう意味だ?」

 俺が真面目に尋ねると、漸くヴォルフの顔も硬度を取り戻した。片眉だけを下げたヴォルフは、窺うように俺を見る。

「俺には前世の記憶がある。ファイアマギア王国も、大陸に広がるハルゲニア教を国教としているから、『前世』という概念の説明から始めなければならないが」
「死後、天国や地獄に行くのではなく、別の人間として生を受けるという事だろう?」
「さすがは俺の推しだ。理解が早い」

 ヴォルフが驚いたような顔をしている。
 ……言うべきか。俺も記憶があると言ってしまうべきか? だがもう少し様子を見たい。

「その前世において俺は、|山田定吉《やまださだきち》という名のサラリーマンだった」
「……」

 なお俺は、前世の個人情報の記憶は無い。漠然と自分が男だった記憶がある程度だ。これから思い出す事はあるのだろうか? だが正確に『サラリーマン』という言葉の意味が分かるから、俺はヴォルフ殿下と同郷だった可能性が非常に高い。

「趣味はざまぁ系小説を読む事だった。ざまぁ系小説について一言で説明すると、『一方的に婚約破棄した王族が仕返しをされる』とでも言えば良いのか……」
「つまり、俺がクリスティーナとの婚約破棄をしたような状況だな?」
「その場面が見たかった! どのようにして破棄した!?」
「えっ……――と、真実の愛に気づいてしまってな、率直にそれを伝えた」
「平民の少女に惚れていたのだろう!?」
「いいや」
「え!? そんな! 俺の愛読書と違う展開だ! 特典SSの入手も全て行い、各巻五巻ずつは持っている俺の知らない展開だと!?」

 どうやらヴォルフ殿下は筋金入りのコアな読者だったようだ。暇つぶしに読んでいた俺とは格が違う気がする――が、その分俺よりも記憶も鮮明かも知れない。なるべく情報を引き出すべきだ。

「ヴォルフ殿下。脱線せず、話を戻してくれ。それで?」
「冷静な所も俺の推しは格好良い……」
「殿下」
「……その、俺が知る限り、クラウス=バルテル=アクアゲートは、クリスティーナ=ツァイアーと婚約を破棄した結果、アクアゲート国王陛下に廃嫡され王位継承権は剥奪、幽閉後、国外追放されるという流れだった。それを主導したのは、クリスティーナの兄のシュトルフや、物語のヒーローのダイク第二王子殿下だった」

 やはり俺の記憶と同じだ。完全に一致している。

「そして追放後は、国外で暗殺されるんだ。俺は、そんな悲惨な運命を推し――……クラウスに辿らせたくはないのだ。俺が必ず助けてやる」

 心強い言葉であるが、既に俺はその流れは自分で脱出している。しかし脱出していなかった場合でも、もしかしたらヴォルフ殿下に救出されていたのか? セーフティネットとして非常に安心出来るな。

「俺にクラウスを守らせてくれ」
「……万が一俺が窮地に立たされる事があれば、宜しく頼む」
「今は窮地ではないという事か?」
「俺は守られるほど弱い人間ではない」
「推しの傲慢さが堪らないー!」

 ヴォルフが奇声を発した。俺は思わず半眼になってしまった。

「所でヴォルフ。推しとはなんだ? どういう意味だ?」
「推しとは至高! 尊い存在だという事だ。挿絵を見た瞬間から、俺はお前の虜だったんだ。理想の権化だった。配役と立ち位置で断罪される事はすぐに分かったが、俺はお前の退場に涙した――しかし実物の破壊力は凄まじいな……流れるような腐葉土色の髪、そのエメラルドのような切れ長の目、薄い唇……ああああああああああああ好きだ!」

 目眩がしてきた。俺は繰り返すが自分の容姿が良い方だという自覚はある。だがここまで叫ばれた事は無い。特に自分より巨大な男に叫ばれた経験は無い。 

「要するに、今日が初対面だが、ヴォルフは俺の事が好きだという事か?」
「そうとってもらっても良い。だが安心してくれ、推しとは聖域。俺は前世でも今世でも生まれた時から男が好きだし、クラウスが良いというのならいつでも伴侶として迎えて愛でる用意はあるが、嫌がる事は決して……あんまりしない」
「あんまり?」
「あんまり」
「……悪いが、俺は……――シュトルフ=ツァイアーを愛しているんだ」

 ここはきっぱり言っておかないとまずいだろう。俺は卒業パーティの時の事を思い出し、微苦笑してみせた。するとヴォルフが目を見開いた。

「え。そ、それは、事実なのか?」
「事実だ。だから、ヴォルフの気持ちに応える事は出来ない」
「小説ではあんなにも犬猿な仲だったというのに……さすがはシュトルフ=ツァイアー……人気投票三回連続一位だっただけの事はあるな……」
「人気投票?」
「ああ。妹を守りぬく姿勢や時に容赦なく発揮する身内以外への冷徹さへのファンは男女問わず多かった。顔もイケメンだったしな。きっとシュトルフの実物も凄いんだろうなとは思う。クラウスがこれだけ魅力的になっているんだからな……」

 ブツブツと呟きながら、ヴォルフが腕を組んだ。それからじっと俺を見た。

「だが――即ちそれは、現在クラウスは男もOKという意味合いに取らせてもらう」
「ん? あ、ああ。そうなるな」
「だったら、俺にもチャンスがあるという事だな」

 随分と前向きだなと考えつつ、俺は一瞬体の動きを止めてから、切なく見える表情を心がけた。

「悪いがチャンスはないんだ。俺は、シュトルフの事しか見えないからな」

 俺がそう言い切ったのと、勢いよく扉が開いたのはほぼ同時の事で、驚いて顔を向ければそこにはシュトルフが立っていた。仮にも他国の王族の客室だ。ノックなしなど、本来ありえないし、それに先んじて普通は来客を知らせに侍従が来る。

「シュトルフ?」
「……」
「失礼だろう? それに、どうしてここに?」
「父上に話を聞いてすぐに王宮へと来てみたら、婚約者がいるのに人払いなど……どういうつもりだと……言おうとしたが、言う気が削がれたな」

 シュトルフの頬が僅かに赤い。あ。俺の言葉を、扉を開けた直後、多分シュトルフは聞いたんだな。は、恥ずかしい、照れてしまう。気づいた俺まで赤くなってしまった。

 そんな俺に、シュトルフが歩み寄ってくる。俺は自然と隣にそれて座る場所を開けた。そして存在を忘れていたヴォルフを見ると、唖然としたように口を開いていた。

「普段の俺なら非礼を糾弾する。だが推しの幸福は俺の幸福でもある。え? シュトルフ=ツァイアー、お、お前もまたクラウスの事を……二人は両思いなのか!?」

 ヴォルフの言葉に、一礼して座りながら、シュトルフが双眸を細めた。慌てたように侍女が入ってきて、お茶の用意を始めている。

「俺の方こそがクラウス殿下を好いております。非礼はお詫びを。改めまして、シュトルフ=ツァイアーと申します。ヴォルフ=エアリス=ファイアマギア殿下、お会い出来て光栄です。話によると殿下は、俺の婚約者であるクラウス殿下の大ファンと聞き及んでおりますが、決してお渡しするつもりはございません。どうぞよろしくお願いします」

 つらつらとシュトルフが言う。俺はそれが嬉しくて、気づくと頬が緩んでいた。
 ……推し、か。俺の中で、シュトルフは大切になってきているので、今の俺の推しは、シュトルフという事なのだろうか。

「推しの顔が蕩けている……だと? なんという事だ……尊い! クラウス尊い!」

 ヴォルフが叫んだ。
 そこへ侍女がシュトルフの分のお茶を運んできた。こうして改めて三人での空間が始まった。