【五十四】ツァイアー公爵家への帰還





 ヴォルフ殿下に送られてツァイアー公爵家に帰ると、シュトルフが飛び出してきた。そしてその勢いのままで俺を強く強く抱きしめた。

「無事で良かった」
「シュトルフ……」

 俺はおずおずとその背に手をまわしながら、シュトルフの温もりに細く吐息する。

「お前に何かあったらと思うと気が気じゃなかった。これほど自分が不甲斐ないと思ったのは、人生で初めてだ。守れなくて、悪かった。俺から離れるなと言ったのに、俺の方が離れた。そしてお前を危険な目に……怖い目に……」

 シュトルフの声には涙が混じっている。俺は逆に焦ってしまった。

「全然平気だ、気にしないでくれ!」

 これは本心である。原作知識のおかげで、俺は本当に恐怖しなかったのだから。
 俺は笑ってみせた。すると俺の肩に両手を優しく置き、シュトルフが軽く首を振った。

「無理に笑わなくていい」

 その瞳は真剣だ。俺は困ってしまった。
 そのまま俺は、邸宅の中に待機していた医官に見てもらう事になった。具合が悪いとき用の一人用の寝台がある部屋で横になり、色々訊かれたりもしたが、なんの問題もない。気絶する薬を嗅がせられただけで、その後は何も起きない状態で救出されたからだ。目が覚める前に心臓をどうにかされていたら今頃ここにいないのは確かだが……。

 しかし、医官も言う。

「暫くは安静になさって下さい。心が傷を負うという事もあります」

 実際、拉致されたら普通は怖いだろう。でも俺には知識があるせいで、恐怖は本当になかったのである。だがこの日から、一人でここで休むようにと言われた。護衛が扉の外に立っているそうで、よく眠れる魔法香が焚いてあるそうだった。

 ――ダイクが見舞いに来てくれたのは、翌日の事だった。
 大きな花束を持ってきてくれて、マークが花瓶に生けてくれた。

「大丈夫なのか? 兄上」
「ああ。全然なんともないんだけどな」
「そうか」
「気がかりがあるとすれば、逃げた犯人の事くらいだな」

 俺が述べるとダイクが頷いた。

「騎士が拘束して、仮面舞踏会に紛れ込んでいたその一味も捉えられた。摘発したり、警邏の騎士に連絡したのはヴォルフ殿下だが、そいつらへの対処――断罪はシュトルフ卿がしたみたいだな」
「シュトルフが?」
「兄上は安静にする必要があるから、というのもあるし、被害者だからな。伴侶にも断罪する権利がある。かなり容赦は無かったみたいだが」
「そ、そうか……」

 シュトルフの本気の断罪を考えるとちょっと暗殺者達が不憫になってしまったが、俺は素知らぬふりをした。俺の昼食の時間になるとダイクは帰っていき、食後少ししてから、今度はヴォルフ殿下がお見舞いに来た。

「具合はどうだ? my推し!」
「平気だ。昨夜は助けてくれて、本当に有難う」
「いいや、いいんだ。それより俺の雄姿を見ただろう!? 格好良かっただろう?」

 その言葉に、俺は思わず笑顔で頷いた。

「ああ」

 扉が音も無く空いたのはその時で、入ってきたのはシュトルフだった。ヴォルフ殿下が向き直る。

「よぉ、ライバルよ!」
「……ようこそ、ツァイアー公爵家に。見舞い、感謝します」

 いつもであれば、『ライバルでない』と言い添えるシュトルフだが、今回は深く頭を下げた。これにはヴォルフ殿下まで目を瞠っていた。

 なんだかシュトルフは、俺の拉致事件で、必要以上に責任を感じているように見える。負い目を感じているように思えた。

「じゃ、あ、ええと……見舞いもすんだことだし、長居をして疲れさせても悪いからな。俺は帰る、またな!」

 ヴォルフ殿下は俺の想像よりは、空気が読めるようだった。
 こうして俺は、シュトルフと二人きりになった。

「具合はどうだ?」
「いや、俺は怪我一つないし、本当に問題はないぞ?」
「……本当に無事で良かった」

 シュトルフが深く吐息した。
 そしてベッドの上で上半身を起こしていた俺の横に立つと、そっと俺の頭を撫でた。

「そばにいる。いさせてくれ」

 執務はいいのか、と、言える空気では無かった。
 それ以後シュトルフは、ほぼすべての時間、俺の休んでいる部屋にいて、どうしても外せないもののみ、時々使用人に指示を出して片付けていた。俺は適宜眠っていたのだが、俺の隣に座るシュトルフは、一体いつ寝ているのか不安だった。たまに目を覚ますと、シュトルフが俺の手を握っている事もあった。

 心配させてしまった事が、逆に心苦しくなるほどだった。

「困った事は、なんでも話してくれ」

 シュトルフは、優しい。ただ、目の下にクマが出来ている。逆に俺の方が、シュトルフのやつれっぷりに心配になってきた。

「俺は大丈夫だ。な、なぁ? シュトルフ、そろそろ普段の寝室に戻ってはダメか?」
「医官は構わないと話していたが、警備の面を考えるとこちらの方が――」
「平気だ! 今日からはシュトルフと一緒に寝たい!」

 俺が強くそう述べると、シュトルフが最初目を丸くし、それから微苦笑した。

「そうか」

 こうしてこの日から、俺の寝室はもとに戻ったし、食事もシュトルフと一緒に食べる許可が下りた。怪我人でも病人でもなかったから、こちらの方がいい。なによりシュトルフにもしっかりと食べてほしかったし、眠って欲しい。

 このように、俺の拉致事件は一応幕を下ろしたのである。
 しかしやはり原作で起きる事件は、この世界でも若干の姿を変えつつ発生しているのだなと思えば、怖くもあった。どうか俺が追放される未来は、変わっていますように!