【*】神様の器
御遼神社へと戻り、風呂に入って禊をしてから、その日はぐっすりと侑眞は眠った。全身が泥のように重い。しかし不思議と意識は清明であり――これが予兆であるとすぐに分かった。
気づいた時、侑眞は見慣れた御遼神社の鳥居のすぐ下に立っていた。
しかしそこが、現実のものではないという事も理解していた。
現実ではないというのは、二通りの意味を持つ。
一つは、ここが侑眞の夢の中だという意味だ。
もう一つは――夢を通じで、祀る天御中主神とその遣いの妖狐のテリトリーに訪れているという意味合いである。
「お疲れ様でぇす」
間延びした声で、己が祀る天御中主神に声をかけられて、侑眞は微笑した。夢の中であるせいか、既に疲労はない。
「ご無沙汰いたしております、アメ様。何か御用ですか?」
侑眞が問うと、神様の代わりに、妖狐の水咲が一歩前へと出た。
「御遼侑眞。現在、この新南津市は大変危機的状況にある。アメ様は、お望みだ。力の解放を」
妖狐の声を聞いて、侑眞は無表情になった。
――現在、侑眞は正直な所、一般人とほぼ変わらない能力しか持たない。
というのも、生まれながらに力が強すぎたため、幼少時に凄惨な思いをしたからだ。だから過去には視えた神様や水咲と話をするにも、現在は夢を通すしかない。
例えば玲瓏院紬くらい強かったならば、鬼や妖は近づかないかもしれない。だが、侑眞は紬よりは弱い。かと言って、視えるため、単純な霊障では済まない。そういう意味で、享夜よりは力がある。そんな侑眞は、人ではない存在にとって、非常に美味な食物であるらしい。だが――力を封印してしまえば、そうした危機は回避できる。
同様に、視たくはないものを、視る事もなくなる。
そうして生きてきたから、侑眞は昼威のような形で、怪異を受け止めている人間を見ると、強いなと感じる。精神力が強くなければ、否定しながらも受け入れるような態度で生活する事は出来ない。
「危機的状況というのは?」
「一人、また一人と、縁ある者と引き裂かれ、喰われていく」
答えたのは水咲だ。神様は微笑して、侑眞を見ているだけだ。
「もし俺が、力を取り戻したならば、何か事態が好転するんですか?」
尋ねたものの――失った時点で、力が一体どういうものだったのかを、侑眞は思い出す事が出来なくなった。
「当然だ。取り戻したならば、御遼侑眞――お前は、正しくこの社を護る者となる」
それを聞き、侑眞は大きく息を吐いた。
確かにもう、迂闊に鬼や妖に喰われるような失態は犯さないし、何が視えても受け入れる事は可能だろう。逆に、いちいちお祓いが困難な場合に、昼威といった周囲に頼む必要も減るならば、それは都合が良い。呼び出して酒を飲む口実は無くなってしまうが。
「分かりました。どうすれば良いですか?」
何とはなしに、侑眞がそう口にした時だった。
その場に風が吹き荒れ、色づいた楓や銀杏と、春の満開の桜の花びらが同時に舞い散った。秋と春が交錯した風景の中で、思わず右腕で侑眞が目を庇った時、まるで水をかけられたような気配がした。
「あ」
そして――侑眞は、思い出した。
目の前には既に、天御中主神の姿は無い。
理由は簡単だ。侑眞の”内側”にそれは宿っているからだ。
「思い出したか?」
水咲が聞く。侑眞は冷や汗をかきながら、ゆっくりと頷いた。見れば装束も変わっている。笏を手に、侑眞は己の纏う狩衣を見た。元々――そうだった。侑眞が生まれながらに持っていた神の力を、強制的に分離させた結果、生じたのが天御中主神の一つの形だったのである。
「そうか。俺に生まれつき宿っていた力が、アメ様、か」
「そうだ。それが御遼神道の神主の役目であり、務めである。アメ様の器として生を受け、祀り、代わりに――八百万の力を行使できる」
「それだけじゃない。俺は、水咲を使役できるんだ」
「いかにもその通りだ」
頷いた妖狐は、狐面の位置を直しながら、まじまじと侑眞を見る。
侑眞は己の中に戻った、神の気配に心地良さを感じていた。
同時に、分離していた間のいくつもの記憶が流れ込んでくる。
それは元来侑眞のものであるはずで、なのに違うという矛盾を喚起した。
「……俺、昼威先生に結構色々頼んでいたんだね」
「そうだな。侑眞――アメ様は、藍円寺昼威を非常に頼りにしているようだ」
「でも俺は別に、若者言葉が好きというわけじゃないんだけどねぇ」
そんなやりとりをしてから――侑眞は目を開けた。
そこは見慣れた寝室だった。
――その頃、藍円寺昼威は、救急に搬送されてきた人々に点滴をする仕事に忙殺されていた。呪鏡屋敷に耐えられずに運ばれてきた人々への対処だ。
今回ばかりは、点滴をしながら、バシンバシンと昼威はホコリを祓うがごとく除霊をしていたのだが、周囲のスタッフは誰も何も言わなかった。
約三日ほどそれを続け、全員が無事に回復するまでの間、クリニックを開ける事は無かった。