【14】神聖な気配



 ここの所は、救急にずっと入っていたため、昼威は久方ぶりにクリニックを開けた。とは言っても、困る患者もいなければ、誰かが来るわけでもない。

 一人、無人のクリニックで、診察室の椅子に座り、昼威は溜息をついた。
 ――あまり好きではない神聖な気配がしたのは、その時の事だった。

「またあの神様と妖狐が来たのか……」

 辟易しながら、昼威は立ち上がった。
 そしてクリニックの扉へと向かう。

「おはようございます、昼威先生」

 すると立っていた御遼侑眞が微笑した。小さく頷いてから、昼威は周囲を見回す。そして首を傾げた。神聖な気配の発生源であるはずの、神様の姿も妖狐の姿もどこにも無かったからだ。何度見ても、侑眞の姿しかない。


 だから改めて、侑眞をじっと見る。

「――お前、雰囲気が変わったな」

 そうとしか表現できなかった。正面にいる侑眞は、昼威のよく知る顔なのだが、いつもとは異なり、まるで神様のような気配を放っている。その神聖な気配は、寧ろそのものとさえ言える。

「ちょっと色々と、取り戻したんだ」
「は? で、何の用だ?」
「――別れさせ屋対策の件、何か進展したか聞きたくて」
「いや、何も……――何だって?」

 昼威は素直に答えかけてから、思わず聞き返した。

 侑眞には、神様や妖狐の声は聞こえないはずだったし、視える事すらないようだった。だが、別れさせ屋の件は、その侑眞には見えないはずの神様からの依頼だ。

「ねぇ、先生」
「待て、俺の質問に答えろ。どうして侑眞が知っているんだ?」
「――頼んだのが、俺だったから」
「え?」

 上手く理解できず、昼威が首を傾げると、侑眞が静かに微笑んだ。


「ただ決定的な過ちが一つあったんだ。御遼神社の神様には」
「神なんか存在しない」
「うん、そうだね」
「へ? 認めるのか?」

 いつもとは異なる侑眞の反応に、昼威は困惑した。だが、侑眞はクスクスと笑っているだけだ。ただ、普段よりも纏う空気が優しくも気だるいものに感じられる。

「先生に、アメ様と水咲は、危ない橋を渡らせていたらしい」
「っ」

 視えないはずだというのに、名前が出てきたものだから、昼威は息を飲んだ。
 まじまじと昼威が侑眞を見る。
 侑眞はといえば、昼威もこのように話せば、何かを感づくだろうと考えていた。

「俺は、昼威先生を、危険な目にあわせたいとは思わない」
「……そうか」
「だから、進展がないのなら、ここで終わりで良い」
「どういう意味だ?」

 昼威が問うと、何度か侑眞が首を振った。


「六条彼方は危険すぎる。このまま先生が関わっていたら、いつかは先生の周囲との縁も切られてしまうかもしれない。それには、例えば俺と昼威先生の先輩・後輩といった関係も含まれる。俺はそれを望まない」

 そう言うと、侑眞は昼威に白い封筒を差し出した。

「報酬です」
「――また商品券じゃないだろうな?」
「さぁ? では」

 そう言うと、くるりと踵を返して、侑眞が帰っていった。昼威は、いつも『また』と言われるから、それが無かった事に首を傾げつつ、封筒の中身を見た。

「!」

 中には、札束が入っていた。硬直するほどの高額だった。

「……」

 しばしの間、呆然としながら、確定申告について考える。だが、そんな場合ではないと判断し、追いかけようかと考えた。だが既に、侑眞の姿は見えない。

「今まで、こんな額を支払われた事は無いぞ……?」

 それもそのはずで、アメという神様や妖狐は、人間のお金など持たない。お賽銭で収入はあるのかもしれないが。そして二人からの依頼を、これまでの間、侑眞は知らなかったのだから、侑眞からの支払いも当然なかった。


 ――結局の所、弟をお人良しだと評価しているが、昼威自身も人が良い。そのためほぼ無報酬で引き受けていたと言える。

「藍円寺昼威」

 その時、気配なく声がかかった。驚いて息を飲むと、水咲がそこに立っていた。

「お前、気配が……」
「現在俺は独立しておらず、正しく使役されている」
「どういう事だ?」
「アメ様が侑眞の中に戻った。正確に言うならば、それは宿ったという事でもあるし、本来――アメ様と侑眞は同じ存在だ。アメ様は、力であり、存在である」

 妖狐はそう言うと、首を傾げた。その頭部を見て、昼威は目を瞠る。
 巨大な狐の耳が付いていたからだ。
 よく見れば、後ろ側にも三本の尾がある。

「お前は、どうなったんだ?」
「今は、侑眞に使役されている。侑眞の命令に従う。そして侑眞を護る」
「じゃあどうしてここにいるんだ? ついていかなくていいのか?」
「普段は自由にしていろというご命令だ」

 水咲はそう言うと、狐面を手に取り、視線を下げた。それから昼威の持つ封筒を一瞥する。


「手切れ金か」
「は?」
「寂しくなるな」
「手切れ金? なんの、だ?」
「今までの俺とアメ様からの依頼の記憶もまた侑眞には戻った。その報酬と――ここでそれらは終わりであるという線引き、手切れの金だ」

 それを聞いて、昼威は眉を顰めた。

「手切れって――同じ新南津市で暮らしているんだし、これからも何かと関わりはある」
「本当にそうか?」
「どういう意味だ?」
「俺がアメ様の望みを伝えたり、侑眞の後ろからアメ様と俺が何かを伝えなければ、自発的に、藍円寺昼威が御遼神社を訪れる事は無い」
「……用事がないからな」
「今後も用事は生まれないだろう。即ち、会う機会は無い」
「そうでもないぞ? 俺だって、初詣くらいは行く」
「その時、例年侑眞に会うのか?」
「……いいや。神社は稼ぎ時で忙しいからな」

 昼威がそう答えると、小さく水咲が頷いた。


「侑眞はもう、藍円寺昼威に迷惑をかけたくないそうだ」
「だとしても、また下らない呪いの人形だのといった厄介な頼み事をしてくるだろう? どうせすぐに」
「お前も、先程の侑眞の神聖な気配を感じただろう? アメ様と同一化した今、侑眞には呪いを排除する事など、実に容易い。つまり――もう、ここへは来ないだろう。よって、最後の精算として、その人間の紙幣を置いていったんだ」

 妖狐の姿は、そう言うとするりと消えた。
 一人残された昼威は、俯いて考える。

「まぁ、迷惑ごとがなくなるなら、良いか」

 ポツリと呟いたその声を聞く者は誰もいなかった。