【六】百合の匂い








 朝が来た。
 本日もユーゼ父上とルツ父様と三人で食事をした後、ユーゼ父上と二人で皇宮に行く。そこで分かれて魔導騎士団の本部へと向かい、僕は静かに足を動かした。チラチラと視線が飛んでくるから、溜息を押し殺す。家族のおかげで僕は目立つようだ……本日も……。

「ゼリル様、おはようございます」

 本部の建物に入ると、玄関で副隊長のカースさんと遭遇した。頭を下げて挨拶を返す。

「おはようございます」
「今日は、帝国独自の、魔王の繭調査部隊が編成される日ですね」
「はい」
「協調路線ではありますが、国益を考えると、独自の情報も欲しい所で複雑です」

 カースさんはそう言うと、細く長く吐息した。僕はライゼ兄上が公国にいるし、ルツ父様は王国出身だし、という境遇なので、あまり帝国独自といわれてもピンとこない。ただユーゼ父上やルイス兄上の力にはなりたいと思う。

「無理の無い範囲で、より深い調査をお願い出来ますか?」
「努力します」
「期待していますよ」

 ……努力は出来る。でも、努力は実るとは限らない。そこが難しい所だ。何せ僕は、小さい頃、ライゼ兄上やルイス兄上よりも沢山腹筋をしたが、筋肉はあの二人に負けている……。牛乳も沢山飲んだが、僕の方が背が低い……。

 そのまま二人で階段を上り、本部の待機室に入った。隣接している隊長執務室に、そのままカースさんは入っていく。副隊長として、ヴァイル隊長のお仕事を支えるためだ。カースさんは書類仕事が非常に早いのだという。この部隊の参謀役も担っている。

 僕は待機室のソファに座り、窓の外を一瞥した。既に先遣部隊は出立している時刻だ。そして僕以外の魔導騎士は、現在、指定魔力技能訓練という鍛錬に臨んでいる。僕は免除された為、やる事が無い……。魔力量を増やす訓練だから、既に訓練により得られる最高値より魔力がある僕が鍛錬をしても、効果が無いそうだ。

 だから朝はいつも、僕は待機室においてある資料を眺めている。活字を見ていると……眠くなってくる。本当に、これが困るのだ……。うとうとしてしまいそうだ……。

「ゼリル様」

 その時、扉が開いた。ビクリとしてから顔を上げると、険しい顔でカースさんが出てきた所だった。

「ちょっとこちらへ来て下さい」
「は、はい!」

 隊長執務室内に入ると、ヴァイル隊長が険しい顔で、魔術ウィンドウを睨んでいた。慌てて視線を追うと、そこには先遣部隊から送られてきたらしい映像が映し出されている。

「どうかしたんですか?」
「――これを見てくれ」

 僕の言葉に、ヴァイル隊長が数分前の映像に時間を巻き戻した。巻き戻し魔術はSSSランクである。改めて映し出された画面を見ると――そこには、魔王の繭が映っていた。勿論遠方からの撮影だ。通常の人間は、瘴気で近寄る事が出来ない。

「繭がどうかしたんですか?」
「右奥の木の陰だ」
「……」

 言われた箇所を探し――僕は目を見開いた。

「人が……」

 そこには、一人の青年が映し出されていた。ライゼ兄上と同世代に見えるから二十歳くらいだと思う。長身で、くすんだ緑色の外套を羽織っている。

「どう思う?」
「あり得ません。あの瘴気の中で呼吸出来るなんて、一般的な魔力量の持ち主とは考えられません。少なくとも、この大陸の中の人間だとは思えません」
「俺もそう思う。可能性として考えられるのは、三つだ。一つ目、別大陸の人間。二つ目、人型の魔獣が出現した。三つ目、稀人」

 ヴァイル隊長の言葉に、僕は思わず眉間に皺を寄せた。

「最果ての闇森の向こうには、海があるというのは文献で読んだ事があります。確か、帝国の海とぐるっとまわって繋がっているって」

 この世界は、丸い星にあるらしい。
 その為、端を進むと逆の端に到達するのだという。

「ああ。そして帝国側からであれば、途中の魔力嵐の影響で、渡航が不可能に近い。そして最果ての闇森側の海であれば、最果ての闇森において人間は命を落とす」
「そうですよね……でも、映っていますね……」
「人間であれば救助しなければならない。異世界からの稀人でもそれは同じだ。だけどな、もしも人型の魔獣が出現したのだとすれば、それはただの敵だ」
「……」
「どう対処したものか。既に公国と王国、そして天球儀の塔には情報を共有した。だが、人間であった場合、統一見解が出るまでの間、瘴気に耐えられるとは考えがたい」
「僕、助けに……――場合によっては倒しに行きます」
「そうか。行ってくれるか」

 ヴァイル隊長がどこか安堵したような顔になった。僕は自分に与えられた使命を正確に理解したと判断し、ちょっとホッとした。見に行くくらいならば、僕にも出来る。そして人を殺めた事は無いけれど、魔獣ならば倒せる。魔獣であれば、人型であっても人体風のどこかに第三の目があるはずだから、判別可能だ。第三の目の位置をサーチする魔術が存在する。

「行ってきます」

 僕は一度大きく頷いてから、転移魔法陣へと向かった。
 現在は、五の月の半ばだ。初夏の気配が近づいてきている。僕は左手の手袋をはめ直しながら瞼を閉じた。すると光に飲まれた。その目映い光が収束してから目を開けると、それまでとは異なる風が吹いていた。最果ての闇森に到着したのだ。

 風の魔術で一度宙に飛び、僕は森全体の魔獣の位置情報を取得するための魔術を展開した。魔王の繭に近づけば近づくほど、巨大で凶悪な魔獣が多い。その中に人型がいるか、それをまず調べた。

「いない……」

 その事実にちょっと、安心した。魔獣なら倒せるとは言え、人型というのは、あまり良い気はしない。続いてすぐに、人間の位置情報を把握するための探査魔術を発動させた。転移魔法陣付近には各国の魔術師達がいる。では、森の中は?

「あ」

 僕は結果を脳裏で視覚化して唖然とした。魔王の繭から少し離れた場所に、確かに人間がいる。

 ……。
 幾重にも結界を張り巡らせたならば、数分であれば近づけない事は無い。だが、失敗すれば、僕は意識を落とす可能性が高い。

「……」

 魔王の繭のそばにいる人間は、立っている。意識の状態は不明だ。だが、人間である以上、放ってはおけない。一刻を争うのだ。二度小さく頷いてから、僕は瞬間転移で、魔王の繭のそばに移動した。SSSランクの魔術だが、ユーゼ父上に教わったものの中では、そこまで魔力を使わない部類のものだ。

「あの!」

 口布を引き上げて、手で口を押さえつつ、僕は声を掛けた。

「!」

 すると魔王の繭を凝視していた青年が、僕を見た。先ほど魔術ウィンドウの中で見た青年と同一だ。

「ここは危険です。すぐに一緒に離脱を」
「――危険だという事は理解可能だが、貴様が危険では無いという保証は?」
「え?」
「この瘴気の中、魔力ブレもなく転移可能な魔術師か。しかしながら、その実力ある人間が、善良で安全な人間であるとは限らない」
「え、えっと……」
「何者だ?」

 青年が悠長に会話を始めた。そんな場合ではない。あんまり長時間話していたら、瘴気にあてられて、僕は倒れてしまう……。

「……僕は、ゼリル=ベルスと言います」

 とりあえず名前を名乗った。いきなり何者かと聞かれても、僕は自分を証明出来ない。

「血脈に宿る魔術痕跡を見る限り、貴様の本名は、ゼリル=ナイトレル・ヴェルリス・バルミルナであるようだが?」
「あ、はい。魔術名は、それです」
「翻訳魔術が失敗しているわけではないようだな」
「翻訳魔術……?」

 この大陸の言語は、統一語だ。翻訳魔術を必要とするのは、古代魔術の封印解除の際くらいのものである。しかしそう考えて、ハッとした。別の大陸や異世界ならば、言語が違う可能性はある。

「どこから来たんですか?」
「ナゼルラ大陸から逃れてきた。あちらは既に、瘴気が大地全体を埋め尽くしている。今この惑星で、人間が生存可能な土地は、この大陸の三分の二にあたる三カ国しか無いと、こちらの魔術式では計算していたが、その通りだったらしいな」

 ナゼルラ大陸は、僕も聞いた事があった。ただし、お伽噺の中で。なんでもヴェルリス神という魔術の神様が相棒をしていた創始の王様の出身地だったらしい。ああ、だめだ。瘴気でクラクラしてきてあんまり物事をよく考えられなくなってきた……。

「兎に角……逃げないと……」
「そうだな。このままであれば、貴様は内臓が溶解して死ぬだろうな」
「え、貴方は?」
「俺は治癒魔術を使用出来る。溶けた端から再生可能だ」
「治癒……?」

 現在、医療魔術は進歩を見せているが、治癒魔術とは異なる。治癒魔術は、古代魔術の一手法だ。何でも、特殊な紋章で絶大な効果が出るらしい。医療魔術はその点、魔法薬液等を使うのだが、治癒魔術は薬は使わないというのが僕の持つ知識だ。

「そ、それより! 喋っている時間は無いです。早くしないと……っ」

 僕は思わず咳き込んだ。一気に瘴気が濃くなったからだ。宙に浮かんでいるのが辛くなり、僕は地に降りる。その瞬間、目眩がして、思わず膝をついた。何か、瘴気に混じって、力が抜ける香りがしたのだ。

「……」

 息が苦しい。そうは思うのだが――無性に安心する香りがする。何だろうこれは。庭に咲いていた百合の匂いがする。

「……」

 おかしい。今は一刻も早く離脱しなければならない緊急事態だというのに、もっとここにいたいという気分になる。

「ゼリルと言ったな?」
「……」
「おい? そのままそこで停止していれば、死ぬぞ?」
「……っ」

 僕は唇を思いっきり噛んだ。血の味がするが、少しだけ思考が戻ってきた。僕は慌てて立ち上がり、青年の手首を握る。

「何をする?」
「逃げないと!」
「……そうか。念のため聞くが、俺の救助に来たのか?」
「そうです。大丈夫です。生きていれば何とかなります」
「!」
「死んだら終わりです」

 僕はそれだけ告げると、強制的に瞬間転移した。他者を連れての転移はごく短距離しか出来なかったが、それでも大分楽になった。必死で、浅い呼吸を繰り返しながら、僕は宙で制止する。青年の手首は握ったままで、彼の足の下にも風の魔術を展開した。

「……生きていれば、何とかなる、か」
「ここはまだ危険だから、もう一回転移しますね!」

 青年の言葉を無我夢中で遮って、僕は今度は、転移魔法陣までの転移に挑戦した。