【七】気のせいであって欲しい。
転移は無事に成功した。
「ゼリル様!」
僕が転移魔法陣のそばで膝を突くと、カースさんが駆け寄ってきた。顔を上げれば、ヴァイル隊長の姿もある。僕は青年の腕から手を離して、片手で口布を取った。そして存分に酸素を吸い込んだ。本気で死ぬかと思った。
「……先に、帰っても良いですか?」
大至急休まないと、僕はもう倒れてしまいそうだ。思わずそう尋ねると、ヴァイル隊長が頷いた。
「ああ。後は任せてくれ。今日はゆっくり休め」
それを聞いて、僕は安堵した。それから一度青年を見る。
「大丈夫、みんな良い人です」
「……そうか? あの瘴気の中、他人の救助に直接来る個人よりも、更に善良な者の集まりには見えないが」
「あはは」
僕は適当に笑った。普段無表情に近い僕であるが、空笑いするしかなかったのだ。
「では」
必死でそれだけ告げて、僕は転移魔法陣にのり、瞼を伏せた。頭がグラグラする。おかしい。確かに魔王の繭の付近で、百合の匂いがした。
「……」
皇宮に戻った後、僕はそのまま、ベルス侯爵邸の地下魔法陣へと移動した。今日はもう休まないと駄目だ。自宅についてすぐに、僕はローブを脱ぎ捨てた。瘴気が染みついている感覚がする。
「ゼリル?」
そこへルツ父様が顔を出した。
「父様……お風呂に入りたい……」
「着替えなら用意しておくけど――大丈夫? 真っ青だよ、顔が」
「うん。大丈夫。入ってくる」
僕は気づくと涙ぐんでいた。今になって震えがこみ上げてくる。あとちょっとあの場にいたら、僕は死んでいた事だろう。恐ろしい。
その後僕は、自分がどうやって浴槽に浸かったのか覚えていない。気づいたら、ぼーっと乳白色のお湯の中にいた。
「ゼリル、大丈夫?」
ルツ父様に声を掛けられて、我に返った形だ。
「……ルツ父様、聞いて」
「どうしたの?」
「魔王の繭から百合の匂いがしたんだ」
「百合?」
「うん。著しく緊張感が緩む香りがした」
「……っ、それは……」
「甘くて惹きつけられて、なんていうのか……何なんだろう、あれ。何も考えられなくなりそうだった」
僕がそう言うと、ルツ父様が目を見開いた。そして呆然としたように僕を見た。
「それは、間違いなく魔王の繭からだったの?」
「だと思う」
「その時、そばに初めて会う人間はいなかった?」
「え?」
「まさか繭から孵る魔王と番いという事は……無いと思うし……」
「へ?」
それを聞いて、僕は目を丸くした。何度か瞬きをしてみる。
「い、いたけど、別の大陸の人だって言うから、この大陸に展開されてる番い判定のフィールドの中にはいなかったはずで……」
「でも今この大陸に足を踏み入れて、そしてその人物が過去にあった誰よりも番いに相応しい魔力の持ち主ならば、感じ取れるようになった可能性はあるよ」
魔力色による番い判定のフィールドは、天球儀の塔が大陸全域に展開していると、キルトお祖父様から聞いた事がある。
「――魔王の繭のそばに、別大陸の人間がいたという事で良いの?」
「う、うん……」
「……」
「え、でもさ? え? 魔王の繭から百合の匂いはしたと、僕は思うよ?」
「そうだとすれば、いつか産まれる魔王が、ゼリルの番いという事になるけど……」
「待って待って、ただのお花の匂いだよ?」
「ユーゼ様の匂いはお香だよ?」
「……」
「……」
そのまま、僕とルツ父様は視線を合わせたままで沈黙した。その後僕は、とりあえず、お風呂から出る事に決めた。着替えて居室に行くと、ルツ父様が僕に水を差しだしてくれた。それを飲み込んでから、僕は深々と吐息する。
「気のせいだったのかもしれない」
「大丈夫?」
「うん。瘴気で朦朧としていたんだと思う。もう大丈夫です」
「無理はしちゃ駄目だよ」
心配そうな顔をしながらルツ父様は、僕をじっと見た。そしてピトリと綺麗な手を僕の額に当てた。
「ちょっと熱があるみたいだよ」
瘴気に当てられると、発熱したりする。僕も自分の体がフラフラする事には気がついていたので、頷いた。
「ちょっと寝てみる」
「うん。それが良いよ」
立ち上がった僕をルツ父様が支えてくれた。そして、自室まで送ってくれた。寝台に横になった僕に薄手の毛布を掛け、ルツ父様が小さく笑った。
「よく頑張ったね」
「うん……うん」
「おやすみ。ゆっくり休むように」
「うん」
そう答えてすぐに、僕は眠ってしまった。泥のような眠りだった。
――その翌日は、お休みをもらえた。というのも、僕の熱が上がったからである。体温計を見たら、40度もあった……。見ただけで一気に具合が悪くなった。本当は報告に行かないといけなかったと思うんだけど、僕は不甲斐ない……。
結局三日ほど寝込み、僕が完全に復帰したのは丸一週間が経過してからの事だった。
その日、僕は久しぶりに皇宮へと行く事になった。
体力がごっそりと持って行かれた気がする。しかしもう熱は下がったし、咳なども出ない。休暇中には、医療魔術師が診察に来てくれたが、内臓等には異常がないとの事だった。
「無理はするなよ?」
皇宮の転移魔法陣で別れ際、ユーゼ父上に言われた。僕は小さく頷く。そうして父上と別れて、僕は魔導騎士団の本部へと向かった。すると真っ直ぐ、隊長の執務室へと通された。
「無事で何よりだ、ゼリル様。心配したぞ?」
「ありがとうございます……ご心配をおかけしました……」
「いいや、本当に無事で良かった」
ヴァイル隊長が微苦笑した。隣ではカースさんが頷いている。
「改めて状況を報告して欲しいんだ」
隊長の声に、僕は頷く。カースさんが僕の前に紅茶を置いてくれた。
それを受け取り、礼を述べてから、僕は自分が見た事を語った。
「――以上です」
「他に変わった事や気づいた事はあったか?」
「……百合の匂いがして……」
僕は言うべきか迷った、勘違いかもしれない香りについて脳裏に浮かべていた。二人はじっと僕を見ている。これは、言わないとまずいよね? と、考えて、僕は静かに伝える事にした。
「魔王の繭……か、その、あの場にいた人物から、百合の匂いがしたんです」
「百合?」
「百合ですか?」
「……なんというか、酷く安心する香りで、緊張感とか危機感が消えそうになる香りでした」
恐る恐る僕が言うと、二人が顔を見合わせた。そして揃って首を傾げた。
「まるで番いの香りのような話ぶりだな」
「私にもそう聞こえましたが……――そういう事でしたら、彼にもう一度会ってみれば良いのではありませんか?」
「それもそうだな。番いだとすれば、会えば確定出来るだろう」
ヴァイル隊長とカースさんが頷き合っている。僕は顔が引きつった自信がある。
「現在、尋問――というと聞こえが悪いが、話を聞いている最中だ。ゼリル様が救出した青年は、名前はエルトと名乗っている。別の大陸からきた魔術師だそうだ」
僕は小さく頷いた。改めて会うとなると、怖い。緊張する……。
しかし二人の行動は早く、そのまんま僕は、現在エルトが滞在しているという魔導騎士団の予備塔の三階へと連れて行かれた。付き添ってくれると信じていたのだが、扉の前で二人に肩を叩かれた。
「頑張れよ」
「良い結果だと良いですね」
「え?」
「番いだったら邪魔したら悪いからな」
「そうですそうです。外で私達は待っていますね」
「……」
結局僕は、一人でエルトの部屋をノックする事になった。
『はい』
「……ゼリル=ベルスです。入っても良いですか?」
『どうぞ』
淡々とした声がかかった。僕は唾液を嚥下してから扉を開ける。一歩中に入り、静かに扉を閉めた。そしてチラリとエルトを見る。エルトは最初に顔を合わせた時と同じで、どこか緑が差し込んで見える濃い茶色の髪に、エメラルド色の瞳をしている。大きな目はどことなくつっていて、猫に似ている。間近で対面して改めて思うのは、僕よりも背が高いという事と――……ん?
「……」
百合の匂いがする……。
魔王の繭から香っていたのではなく、エルトからこの百合の匂いはしていたのか……そばにいたから分からなかった……。え? と言う事はつまり、エルトは僕の番なのだろうか? そもそもこの香りは本当に番いの香りなのだろうか?
「どうかしたか?」
「……百合の匂いがして」
「百合? この部屋には生花は存在しない」
「……その……この大陸には、番いを判別するために、魔力から香りがするという特殊な結界魔術のようなものがあって……」
「番い? それは何だ?」
「伴侶になるという事で、子供を産む条件になります」
番いは番いだ。説明しろと言われても、困ってしまう。僕にとっては呼吸するように昔から存在している自然の摂理だ。しかしエルトは不思議そうな顔をしている。
「俺のいた大陸には、女性が生存していた。子は女性が産んだが?」
「……この大陸には存在しないので、同性同士で妊娠出産が行われます。魔王の繭の影響です。魔獣達が女性を産まれなくしたそうです」
「そうか。子を成すには条件があって、それが香りという事で良いのか?」
「らしいです。僕も初めて香りを感じたので自信ゼロですが……」
「特定個人からしか匂いはしないのか?」
「多分」
「それで俺から百合の匂いがすると?」
「はい」
「――悪いが俺の方は、石けんの匂い以外は感じない」
「普通は双方共に感じると言うし、気のせいかもしれないですね」
「あるいは俺がこの大陸の人間では無いから、判別出来ないという事になる」
僕としては、気のせいであって欲しい。見知らぬ人物といきなり番いだと言われても困る。
「少し、話がしたいと思っていたんだ。番いに関しても含めて、聞かせてくれ」
「はぁ……」
「座ってくれ。俺は、エルトという。それ以上は名乗りたくない」
「そうですか」
「すぐに茶を淹れる」
促されたソファに僕が座ると、エルトが紅茶の用意を始めた。手慣れているその様子に、別大陸にも同様の文化があるのだろうかと、僕は漠然と考えたのだった。