【十三】僕の香り?






 侯爵家に戻ると、上階の気配から、ユーゼ父上も帰宅済みだと分かった。

「ここが僕の家だよ。これから両親を紹介するね」
「どんな人物だ?」
「え?」
「俺を引き受けてくれる同意をしたのだから、ゼリルに負けないお人好……人格者である事を期待するが、仕事や爵位は?」
「大丈夫。ルツ父様は僕なんか並べないくらいお人好しだよ」

 僕が苦笑すると、エルトもまた苦笑した。仏頂面よりは苦笑であっても笑顔の方が良いと改めて感じる。

「ユーゼ父上も良い人だよ。ユーゼ父上は、この国で宰相をしていて、ルツ父様は図書館のお手伝いをたまにしてる」
「二人とも、魔術師ではないのか?」
「ルツ父様は魔術師だよ。ユーゼ父上は、魔術も剣も使えるけど、文官」
「そうか。俺はあまり宰相という職業に良い印象は無いが、イメージが変わる事を祈る」

 そんな話をしてから、転移魔法陣の部屋を出て、地上階へと上がった。そして居室に行くと、ユーゼ父上とルツ父様が、揃って僕達を見た。先に立ち上がったのは、ユーゼ父上だった。

「お初にお目にかかります。ユーゼと申します」
「ルツです」

 続いて立ち上がったルツ父様が頭を下げた。二人とも微笑している。ユーゼ父上の場合は、大体こういう表情を近しくない他人に向けるが、ルツ父様はかなり気合いを入れて上辺を作っているのが分かる……。僕はチラリとエルトを見た。エルトは普段通りの笑うでも無く、かといって怒っているという風でも無い表情だ。

「エルトと言います。ご子息のおかげで命が助かりました。危険な目に遭わせてしまった事、本当に申し訳ございません。一度お会いしてお詫びを申し上げたかったんです」
「こちらも仕事だ。気にしないで下さい。俺はゼリルの働きぶりを誇らしく思っているし、君が助かった事も喜ばしいと考えている。どうぞ、おかけ下さい」

 ユーゼ父上が促してくれたので、僕はエルトと共に、両親の正面のソファに座った。ユーゼ父上が紅茶の用意を始めたので、僕は背をソファに預けて体を弛緩させた。ずっと結界魔術を展開しているのは面倒くさい。

 しかしエルトは、僕の事を『貴様』と呼ぶから、失礼な人なのかと思っていたが、ユーゼ父上に対してはとても丁寧だ。

「どうぞ」

 カップをユーゼ父上が差し出した。僕は即座に受け取った。ルツ父様も紅茶を飲んでいる。既に普段通りの無表情に戻っている。

 隣でエルトがお礼を言った。それに微笑してから、ユーゼ父上が静かに口を開く。

「これからここで暮らす以上、そう気を遣わないでくれて良い」
「本当に有難い申し出に感謝しています」
「朝は六時半に朝食、昼は各自、夜は俺かゼリルが料理をしている。時間が早いようなら別に食べてもらっても構わない」
「分かりました。少しの間お世話になったら、俺は出て行こうと思うのですが、構いませんか?」
「自由にしてくれ。ただ――後悔しないようにな」
「脅しですか?」
「ああ、いや。不穏な言葉遣いになってしまったな。そうではなく、番いから離れるというのは辛い事だと俺は考えただけだ。残業や視察でルツに会えない夜が、俺は辛い」

 ユーゼ父上が早速惚気始めた。僕は溜息を零す。

「あのね、エルト。ユーゼ父上はちょっとおかしいくらいルツ父様を溺愛しているんだけど、その部分はあんまり気にしなくて良いからね」
「ご夫婦の仲が良いのは素晴らしい事ですね」
「エルトのその見え見えのお世辞は何なの?」
「本心だ。良い事だろう? ゼリルは夫婦仲が悪い方が良いのか?」
「僕はまだ結婚とか全然考えられないから……」

 僕が述べると、エルトが小さく頷いた。それからエルトが、ユーゼ父上に視線を戻した。

「俺が番いの可能性が高いとして、お招き下さったんですか?」
「それが大きな理由だ」
「残念ですが、俺の側は、ご子息からは石けんの香りしか感じないのですが……こちらの浴室の石けんの香りを確認しても構いませんか?」
「ああ、是非確認してくれ。俺はゼリルから、石けんの香りを感じないからな」
「「え」」
「お風呂なら、二人が帰ってくる前に僕がさっき入ったけど、僕からは石けんの香りがしますか?」

 僕とエルトがポカンとしていると、ルツ父様が淡々と言った。慌ててエルトを見ると、彼は首を振っていた。

「いいや……ゼリルからしか石けんの香りはしない……まさか……だが、この、ほんのりとしたちょっと良い匂いが……? 俺には結界をはって防がなければならない強度には思えない……」

 エルトの声に、ユーゼ父上が頷いた。

「その程度のものだ、一般的に。魔力色が一致していて、特別な香りがする――と、思ったらそれは番いだ。肝心なのは心となる。俺はその点、ルツに一目惚れもし、内面にも惚れ込み、結果として深い愛に目覚めてしまった」

 ユーゼ父上がうっとりするような顔で語り始めた。ルツ父様が照れている。しかし僕は、石けんの香りについて考えすぎて、大混乱していた。

「でも僕は、結界が無いと怖いくらいだよ。どうにかできないの? この香り」
「結界術式を魔導具に記録して、常時展開しておけば良いだろう」
「面倒……」
「香りを感じない他者では作り出せないぞ、本物の番いの香りを遮断する結界用魔導具は。ラインハルトならば可能だろうが」
「頑張ってみます……」

 ラインハルト様にお願いする術が無いのだから、自分でやるしかないだろう……。

「まずは浴室に案内して欲しい」

 真剣な顔になったエルトは、そう言うとカップを置いて立ち上がった。僕も慌てて立ち上がる。

「こっち」

 その後僕は、エルトを浴室に案内した。そしてじっと石けんを見た。エルトは手に取ると、顔に近づける。

「……」
「どう?」
「……違う香りだ」
「え? 僕、お風呂はここ以外では入ってないよ? 騎士団の水道の石けんとか?」
「いいや。そうであるならば、見張りの騎士達やこれまでの尋問者からも同様の香りを嗅いだ記憶がありそうなものだが……覚えがない。端的に言って、何処にでもありそうなのに無性に頭に残る香りだ。忘れない」

 エルトは困惑した顔になってから、改めて僕を見た。

「――これが番いの香りだとするならば、ゼリルは俺の番いという事か」
「う、うーん……」
「番いから離れると、辛いんだったな。そうか」
「あ、でも、出て行きたくなったら出て行って大丈夫だよ? 寂しいけど。監視も拘束もしないよ」
「ああ、そうさせてもらう。ただ、本当に辛い場合は、ゼリルにも俺と共に来てもらう事にする」
「え?」

 その言葉に、僕は驚いた。するとブツブツとエルトが続ける。

「正直、初めて会った時、俺はあの世から御遣いが迎えに来たのかと思った」
「どういう事?」
「あの深い森に人間が立ち入れると思っていなかったのもあるし、俺の治癒魔術では移動が困難だったからどの道遠くない未来に死んでいたという意味もあるが、簡単に言えば、外見だ」
「外見?」
「俺は過去に、ゼリルほど綺麗な男を見た事が無かったんだ。羽が生えていないか確認した」
「羽が生えていたらそれは人間じゃなく、魔獣の人型を疑うべきじゃないかな?」
「羽を持つ御遣いの神話は、こちらには伝わっていないのか?」
「神話には、大陸三カ国の始祖王三人についてしか無いよ。お伽噺レベルだと、その前の創始の王様の話があるけど。あとは魔術の神のヴェルリスとか」

 僕は羽が生えた人間の神話は聞いた事が無い。御遣いとは、それとも魔獣の別名なのだろうか?

「それよりも、僕が綺麗だったらさ、ルツ父様とか――会いたがってるライゼ兄上とか、本当に綺麗」
「確かに美しいな。貴様の両親を見て、ゼリルの顔の作りに納得した。美と美の組み合わせが新しい美を生み出したんだな。遺伝子の神秘だ」
「……似てないよね?」
「所々似ている。まぁ何が言いたいかと言えば、状況が状況でなければ、一目惚れとしても良いかもしれないという事だ。俺は男同士の恋愛を先に念頭に浮かべる方では無いから、恋という発想に結びつかなかっただけで」
「その時点で、一目惚れじゃないと思うけど」

 僕はそう答えながら、片手の指先で頬を掻いた。普段の僕は、容姿を褒められると、どうしても家族と比べてしまって落ち込むのだが、エルトに褒められると嬉しい。

「そして二度目に会って以降は、終始、貴様が来るのを待っていた。寝ても覚めても、だ。たった二回会っただけの相手だが、来て欲しいと考えていた。てっきり、一番懐柔しやすそうだからだと思っていたのだが、考えてみれば異常なほど、ゼリルの事しか考えていなかった」
「え? 一目惚れは吊り橋効果だろうし、その話は、普通に考えて、他に頼れそうな人がいなくて不安だったって事じゃなく?」
「俺もそう判断していたが、違うのかもしれない」
「違うって言うと?」
「俺達は、番いなんだろう?」

 エルトがじっと僕の目を見た。焦って僕は、目を見開いた。冷や汗が浮かんでくる。

「これから貴様を待ち続ける苦痛の日常が訪れるのかと思っていたら、真摯にゼリルは俺を連れ出してまでくれた」
「だって……あの部屋、嫌みたいだったから」
「自分が捕まっていたので無ければ、国家の判断として妥当な処置だったと思っている」
「……僕もそう思うんだけど、なんとなくエルトのお願いは、さ……叶えたくて……」
「俺の願いを叶えてくれるのか?」
「出来る事ならね」
「ではちょっと本当に番いか確信したいから、俺にキスしてみてくれないか?」
「ごめん無理、出来る事の範囲外過ぎた!」

 僕は声を上げたのだが、エルトの顔が近づいてきた。エメラルド色の瞳が、じーっと僕を見ている。どうしよう、見惚れてしまって動けない……。唇が触れ合いそうな距離にまで近づく。そして――そこで停止した。

「冗談だ」
「!」

 吹き出したエルトが意地の悪い顔で笑った。僕は真っ赤になって涙ぐんだ。

「酷い!」
「期待したか?」
「した!」
「無理なんじゃなかったのか?」
「あ……」

 理性では無理だと思ったが、僕の内心は期待していたらしい……。口走ってからそれを自覚したら、なおさら顔から火が出そうになってしまった。