【十六】理性と感情と本能の乖離
――朝が来て、本日から、ユーゼ父上とエルトと三人で家を出る事になった。エルトは今日、僕が見た事の無い服を着ているから、やはり魔術で倉庫に衣類を収納していたらしい。上質なシャツにローブを羽織っている。外套よりは目立たない。ローブの形状は、こちらの大陸では首元まで布があって前を閉じるのだが、エルトの品は羽織るだけで前を閉じないようだった。
「ゼリル、場所は分かるな? エルトの案内を頼む」
「分かるけど、何をするかが分からない」
「第二広間の資料室に、資料を置いてある。読んでくれ」
「分かった。有難う、ユーゼ父上」
「何に対する礼だ?」
「……? 何だろう」
僕は困った。エルトに優しくしてくれて有難う――と、言いそうになったのだが、考えてみると大変な問題が持ち上がっているのだから支援は別に優しさからだけでは無いと思う。ユーゼ父上はそんな僕を見ると、小さく微笑し、ポンと僕の頭に手を置いた。
「困った時はお互い様だ」
「う、うん」
「では、俺も行く。二人とも、気をつけるように。ヴァイル隊長には再度連絡を入れておく」
ユーゼ父上はそう言うと、宰相府の方へと歩いて行く。その姿を見送ってから、僕はエルトに視線を向けた。エルトはじっとユーゼ父上の背中を見ている。
「どうかした?」
「さすがは貴様の父親だな。善良だ」
「ん?」
「それとも普通の宰相はこうなのか? やはり人格者という事なのか?」
「僕には分からないけど、ユーゼ父上は良い人だよ。怒ると怖いけど」
「怒らせないよう気をつけるとするか」
そんなやりとりをしてから、僕は右手の階段を手で示した。
「こっち」
「ああ。今日からよろしく頼む」
「ううん。多分、地下の魔法陣が吸収している魔力を使って倉庫に補充転移させるんだと思うけど、その座標は、僕達だけで指定可能か分からないし、まだ役に立てるか分からないから」
「魔力補助が期待出来るのであれば、俺単独でも作業は可能だと判断している」
「魔力補助は魔法陣から魔力を借りられるよ。じゃあ、僕はいらない?」
「……本音を言うならば、ゼリルと同程度の魔力量の持ち主が後二人は欲しいな」
「それなら、ライゼ兄上を呼べたら、一人でやってくれるかもしれない」
「そんなに魔力量が多いのか?」
「うん」
歩きながら、僕は世界樹の階梯について思いだしていた。順位だけで無く数値も歴代最高位がライゼ兄上だ。僕の三倍くらい魔力がある……。
「いつ会える?」
「う……ユーゼ父上かライゼ兄上から連絡があると思ってるんだけど、まだ無いから、今日の夜にでも聞いてみようか。夕食の時に」
「そうか。悪いな」
「ううん。早く会えると良いね」
それから地下第二魔法陣広間まで移動し、僕は先に資料室へと向かった。ドアノブに触れ、解錠魔術で鍵を開ける。
「一人で作業するなら、鍵……」
帝国宮廷魔術師籍がある人間しか、ここの鍵の解錠魔術は使用出来ない。それ以外の人々は、基本的に鍵を使うしか無い。その鍵は、室内に置いてあるので、僕は最初に金庫に近づいた。そちらも解錠して、鍵を一つ取り出す。
「はい。これ」
「あっさり渡して良い物なのか?」
「エルトは悪い事に使うわけじゃ無いから良いんじゃない?」
「……なるべくその信用を裏切らないようにしたい」
エルトが心なしか呆れたような顔をした。僕は頷いてから、テーブルの上にある羊皮紙の束を見る。紙自体に魔力が込められているので、掌で触れれば読み取る事が可能な資料だ。ざっと確認すると、膨大な術式が頭の中に入ってくる。
「エルトはこの資料、分かる? 中身?」
「見せてくれ」
僕が触れ終えたので、エルトにそっくり資料の山を渡すと、エルトが数枚捲った。そして軽く頷いてから、僕を見た。
「地下空間構築可能程度に、ナゼルラ大陸の亜空間倉庫魔術の方が進んでいる。地下に半亜空間で擬似的な地表を作り出して暮らしているからな」
「こっちの魔術は古い?」
「俺から見ると必要最低限だな。ただ転移魔法陣の距離に問題は無い。とても助かる。転移魔法陣に関しては、逆にナゼルラ大陸が遅れている。あちらは主に魔導馬車で移動していた」
「魔導馬車? どんなの?」
「馬がいない馬車だ」
「? 馬がいないのに馬車なの? どうやって動くの? 魔術?」
「魔術だ。馬車というのは言葉の名残だな」
きっと生活スタイルが僕達とは違うのだろう。何せ朝、みんなが一斉に馬車にのったら、絶対に勤務先の周囲が込む。
「早速取りかかりたい。魔術座標は暗記している。手書きでまず紙に書く」
「そう。じゃあ僕は、支援物資の整理と数の確認をするね」
「――助かる。支援物資の内容と量の確認が、俺もしたい」
僕の申し出に、エルトは少し驚いた顔をした。だが何故驚いたのかは言わず、ゆっくりと頷いただけだった。
こうして午前中の作業が始まった。支援物資の内容は、主に小麦粉と魔導固形食だった。そういった食料の他には、医薬品があるが、これは治癒魔術があるらしいしどの程度必要か不明だ。普段は控え室にいるだけの時間を、作業に没頭しながら過ごしていると、時間があっという間に過ぎていく。僕は資料に記載されていた支援物資入りの亜空間倉庫にずっとアクセスしながら、集中していた。
一通り確認できたので倉庫を閉じて目を開けると、ペンの音がした。一瞥すれば、真剣な顔でエルトが紙に見た事の無い文字を書いていた。古代文字にどこか似ているが、不思議な記号がついていたりするし、区切れ目もよく分からない。
その間も、室内には百合の匂いがする。結界魔術は、本日も朝から展開中なのだが……香ってくる。一仕事終えた時にこの香りを嗅ぐのは、本当に犯罪だ。体から一気に力が抜けていく。僕はぼーっとエルトを眺めていた。
「終わったのか?」
「え、あ? う、うん」
「俺は今日はこの作業で終わりそうだ。仕事があるんだろう? 昼食をとって出てくれて良い。鍵は確かに預かった」
「エルトはご飯、どうするの?」
「……適当に旅の時同様、倉庫から何か出して食べる」
「分かった。じゃあ、僕は先に行くね。帰り、道は分かる? 迎えに来る?」
「道は覚えたと思う。迎えは……そうだな。集中しすぎて時間を忘れる事が最も怖いから、声を掛けてもらえると助かる」
「了解。じゃあ仕事が終わったら、ここに来るね」
僕はそう告げて、部屋を出た。階段を上がり、皇宮の中を進む。僕の昼食は、本日はどうしようか。皇宮の庭園には、いくつかの飲食店と、パンやケーキを販売しているお店がある。僕は適当に、カレーパンを買って食べた。
第一部隊の待機室に行くと、カースさんに声を掛けられた。
「ヴァイル隊長がお呼びですよ」
「はい!」
頷いて、僕は執務室に向かった。中には、隊長一人きりで、カースさんは入ってこなかった。
「失礼します」
「今日から午後から何だったな。寂しくなる」
「……」
「午前中、ゼリル様が待機室で眠そうにしているのをたまに見るのが良い休憩になっていたんだ」
「……そ、そうですか」
僕は吹き出しそうになった。見られていたとは……。
「エルトとは上手くやれているか?」
「……その、非常に真面目な仕事ぶりでした」
「そうか。仕事以外はどうだ?」
「……」
どうだと聞かれても困る。特に、どうという事もない。
「……優しいです」
「それは良い事だな。何か、プライベートな話はしたか?」
「国の話を少しだけ」
「国名は?」
「ヴァイル隊長、僕は尋問を続けているわけではなく、客人としてエルトを迎えたので、個人情報はお伝え出来ません」
うっかり僕は話してしまいそうになったが、首を振った。ヴァイル隊長は明るくて良い人物だが、僕の対人関係をこれまで気にした様子は無かった。僕の返答に、ヴァイル隊長の笑みが深くなる。
「職場の上司の俺より、番いの香りの方が、信頼性は高いか?」
「え……ええと……そういう事では」
違うと言おうとした。だが、事実、あの匂いが無かったら僕はエルトを信頼していないかもしれないし、そもそも家に迎えていないかもしれない……。
「冗談だ。まぁ良い。宰相閣下の許可も出ている事だしな。俺も結婚当初は、今のゼリル様のような状態だったから、よく分かる」
「僕みたいな状態ですか?」
「ああ。兎に角良い香りがするんだが、理性は妻、感情は他人、本能は番いと訴えかけてきて、酷い有様だった」
「!」
夫か妻かという意識は無いが、その三種類の乖離は今の僕にとても近い。
理性では別大陸人、感情ではエルト、本能では良い匂いと思っている。
「……隊長。どうしたらそれは一致しますか?」
「聞くか? 下ネタになるから、セクハラと言われると困るんだが」
「え……」
「どうする?」
「……や、止めておきます」
僕はギュッと目を閉じた。何だか気恥ずかしい……。