【十七】事情
その後は夜の七時まで、僕は書類仕事を任せられた。最近たまにある。控え室にいるだけの時間が長いから、少しずつ書類仕事を覚えて欲しいと頼まれているのだ。ただ本来それは、二十二歳以上でなければ閲覧出来ない文献群を資料にする事があるので、在籍は出来ても僕には担当出来ない事柄だったりもする。今、ユーゼ父上とルイス兄上が、規約を改正するか魔導騎士団と検討中らしい。ただユーゼ父上が反対で、ルイス兄上が賛成なので、まとまる前に、僕が二十二歳になりそうだ。
ユーゼ父上が反対する理由は、『ただでさえ最果ての闇森での仕事が多忙なのだから、平時くらい休んでいるべきだ』という僕にとって非常に優しい理由からだ。一方のルイス兄上は、皇帝陛下として『ゼリルにはこなす実力があります』と言ってくれる。こちらも僕には優しい。
どちらに決まっても、僕には正直問題は無い。
あんまり働きたい訳では無いけど……。
その後、僕は第一部隊の本部を出て、地下第二魔法陣広間へと向かった。
扉の前に立つと、中からペンの音がしてきた。静かに扉を開けると、集中した顔をしているエルトがいた。その真剣な眼差しが格好良く見えて、僕は冷や汗をかきそうになった。真面目だ……兎に角真面目に見える。暫し見惚れてから、僕はわざと音を立てて、開けたままだった扉を閉めた。
「もう七時過ぎだよ」
「っ、ああ……そうか。この分だと、あと二時間程度で終わりそうだ。先に帰るか?」
「ううん。待ってる。邪魔じゃ無ければ」
「頼む」
エルトはそれだけ言うとすぐに作業を再開した。僕はそばの椅子に座り、エルトを見る。二人きりの資料室には、百合の良い匂いが漂っている……。真剣な表情のエルトを見る眼福、香りがもたらす幸福感。僕は、ずっとここで、こうしていたい。だめだ、段々、結界魔術を展開していても、意味がなくなってきた。香りは確かに弱まるのだが、会う度にエルト自体が魅力的に見えてくるのだ。
そのまま僕は、作業をするエルトをずっと眺めていた。
「終わった」
エルトがそう言ってペンを置いたのは、それからぴったり二時間後だった。
「後はこれをこちらの言語に翻訳して、術式に組み込むだけだ」
「お疲れ様。翻訳も、今の僕達の会話みたいに魔術でするの?」
「基本的には魔術で置換するが、正確か否かの確認には正規の言語辞書が欲しい所だな……貴様の家の書庫で、いくつかの百科事典を読んで、こちらの大陸統一語自体はある程度習得済みだ」
「え? 本当? 昨日ちょっと読んだだけなんじゃないの? うちの百科事典、魔術がかかってないのに」
「語学は好きでは無いが得意な方なんだ。構造さえ理解すれば、解読しやすいからな」
当然であるかのようにエルトは言うが、僕は尊敬した。この大陸には統一語しかないから、僕には語学という発想がそもそも無かった……。
「遅くまで付き合わせて悪いな」
「ううん、平気。帰ろうか」
こうして僕達は並んで帰宅した。一緒に歩いていると、無性に胸がドキドキする。ただその理由等がさっぱり分からないから困る。
家に帰ると、本日はユーゼ父上が料理を作っていてくれた。既にルツ父様とユーゼ父上は食べ終わっているようだったが、二人も食卓に座っている。僕はパエリアを食べながら、ユーゼ父上に聞いた。
「あのさ。ライゼ兄上からは何か連絡は無いの? エルトが会いたいって」
「是非、お会いしたい」
「――ああ。実は、ルイス皇帝陛下も、エルトに会いたがっていてな。しかしながら公式な場での謁見は反対者も多い。そこで、もうすぐ夜会を開くが、そこにルイスはお忍びで、ライゼも帰省という形で参加し、エルトと会う時間を作るという方向で、ラインハルトとは話していたんだ。ラインハルトも来るそうだ」
父上の言葉に、僕は頷いた。
「良かったね、エルト。来週会えるみたい」
「夜会はどこで開くんですか?」
「ここだ。当日は、招待客の一人として会場にいてくれ」
「どのような趣旨の夜会なんですか?」
エルトがチラリと僕を見てから、改めてユーゼ父上を見た。するとユーゼ父上が頬杖をつく。そしてユーゼ父上はルツ父様を見た。
「ルツはどう思う?」
「……ルイスの……うちの次男のお見合いパーティです」
「だそうだ」
ユーゼ父上はルツ父様の言葉に微笑して頷いた。するとエルトが腕を組んで、片眉を顰めた。
「似たような話をゼリルから聞いた気が」
「うん。前に話したルイス兄上と僕それぞれのお見合いパーティの事だよ」
「――ゼリルも見合いをするのか」
「ん? 見合いって言っても、え?」
「へぇ」
「え……」
エルトは興味なさそうにそう言うと、仏頂面でグラスに手を伸ばした。そして水を飲み始めた。僕は声を上げて、エルト以外と結婚する気は無いと言いそうになり、けれど自制した。結婚っていきなりどうしちゃったんだろうか、僕は……。
「ぼ、僕はその……」
「ゼリルはモテるからな。番い関係にあるとしても、エルトは気を抜かない方が良いぞ」
ユーゼ父上が楽しそうな顔になった。ルツ父様が溜息を漏らした。エルトはそんな二人をそれぞれ見ると、何度か頷いた。若干不機嫌そうな気配になった気がする。え、どうして? ライゼ兄上に会えるのに? ま、ま、ま、まさかとは思うけど、僕が誰かとお見合いしたら嫌なのだろうか? そうだったら良いのに。自分に都合の良い推測をして僕は一人で朱くなった。そして直後、そんなはずはないと我に返って落ち込んだ。
この日を境に、僕は午前中はエルトと仕事をするようになった。この時間が、至福の時となっている……。同じ空間で、二人きりで、ずっと良い香りに浸りながら、僕はエルトの格好良い顔と真剣な仕事ぶりを眺める事が許される。仕事自体には集中して取り組んでいたのだが、ふとした時に不意打ちのように香りを意識すると、心拍数が一気に上がる。
ただ、段々、考えるようになった。多分、香りが無くても……僕は、エルトがもう気になるようになってしまったと思うのだ。真剣で冷静なエルトの仕事っぷりや、理知的な性格が僕は好きみたいなのだ……。顔も格好良く見えるのだが、そういう意味では無く、真摯な仕事ぶりが何より格好良い。そして時々笑うと破壊力がすごい。
午後も魔導騎士団の書類仕事を少しずつ手伝いながら、頭の中ではエルトについて考えている割合が増えていった。何回か、ルシアに声を掛けられているのに気づかなかったことまである。無視をしているのかと睨まれたが、慌てて違うと否定した。
夜は迎えに行く。そして仕事を続けているエルトを眺めている。今も、迎えに来て、僕は椅子に座ってエルトを眺めている。夜会までは、あと三日だ。
「よし、今日はここまでとする」
「お疲れ様」
「……ああ。少し疲れたらしい。こういう時、貴様の石けんの香りは疲労回復の効果がある気がしてくるから不思議だ」
「僕も百合の香りで回復中」
最近僕は、結界魔術を使おうという気にならない。一日が終わったら、逆に百合の匂いを嗅いで、元気になる事に決めたら、気にならなくなってしまった。寧ろ今では、エルトの香りがしない間の方が、やる気が出なくてなんとも言えない。
ユーゼ父上の気持ちが少し分かってきた気がする。確かに番いと離れるというのは辛そうだ。だけどエルトは、別大陸の人であるし、支援物資も送り終わってライゼ兄上とも話したら……帰ってしまうかもしれない。魔王討伐が完了すれば、きっと帰ると思う。そうしたら、もう会えなくなるのだ……。
「エルト……」
「なんだ?」
「帰りたい?」
僕は思わず聞いていた。するとエルトが、じっと僕を見た。射抜かれたような気になって、ビクリとしてしまった。あんまりにも眼光が鋭すぎる。
「既に俺の故郷は無い。もう国が消滅している。ナゼルラ大陸に戻るという意味であれば……そうだな。魔王討伐を見届けたら、今度は地下から地表への移動と新国家の建築が行われるかもしれない……帰る事になるだろうな」
覚悟はしていたが、胸がズキリとした。どこかで、ずっとここにいて欲しいと思っている僕がいたし、エルトも少しくらい僕を気に掛けてくれているのでは無いかと思っていた。
「そっか。早くナゼルラ大陸の大地が元に戻ると良いね」
「……」
「帰ろう。今日は夕食、なんだろう」
僕は立ち上がった。ナゼルラ大陸が元に戻って欲しいというのは本音だが、同時にエルトのそばにいたいという浅ましい事を考えている自分が嫌で、話を変えてしまった。
「ゼリル」
「ん?」
「俺は帰らなければならないが、以前、こちらへ来た事に事情があると伝えただろう?」
「え? うん」
「その事情故に、俺は魔王討伐が成されなければ、帰る事は出来ない。魔王の繭の状況によっては、一生この大陸で暮らし、ここで死ぬ事になる」
「どんな事情? この大陸にいる間は、僕が一緒にいられる限り、その……」
そばにいる、と、言おうとしてやめた。エルトはそれを望んでいないかもしれない。
「俺の母国、アルゼラ王国は、ナゼルラ大陸の中で最も魔術が盛んな国だった。日常的に召喚魔術も行使していて、こちらで言う所の魔獣も使役していた。ある日、兵器として魔王を召喚しこちらの意図通りに動かすという計画が持ち上がった」
エルトの言葉で、そんな僕の考えは霧散した。
「魔王を意図的に操る事が出来れば、時折襲ってくる瘴気嵐も制御可能だという理屈だった。そして――その計画は失敗し、大量の魔獣と魔法植物がアルゼラ王国全域を埋め尽くした。すぐにアルゼラが、そして近隣の国々が瘴気に飲まれた。九割の国民が死んだ。大陸全土で八割の民草が命を落とした。地下に逃れられたのは、ごく一握りの各国の魔術師とその縁者だけだ」
僕は目を見開いた。何を言って良いのか、上手く考えられない。
「元凶であるアルゼラ王国の王族は責任を問われた。アルゼラで唯一の王族の生き残りが、俺だ。第三王子だった」
「え」
「俺の旅は、実態は処刑と同じだった」
「どういう事……?」
「本来、海を渡る事は不可能に近い。旅立つという事自体、死を意味する。死を覚悟で旅をする、いいや、死にに行けというのと同じ事だ。だが、地下において、このままでは遅かれ早かれ皆が死ぬという状況で、解析したこちらの大陸に使者を立てる事になった。誰もが不可能だと判断していた。指名されたのは俺だ。アルゼラが呼び込んだ災禍の責任を取れと言われた」
それを聞いて、僕は息を呑んだ。
「既にナゼルラ大陸の人間達は、俺が生きているとは考えていないかもしれない。また魔王を討伐した所で、戻っても俺の居場所があるわけではない。魔王召喚を承認した父王陛下と兄の皇太子殿下は処刑された。第二王子だった一つ上の兄は、その前に瘴気で死んだ」
「……」
「王妃だった母と姫だった妹は、魔術を持たず、地下に逃れられずに死んだ。俺は二人を助ける事をせず、一人で地下空間を構築していた。一人でも多くの命を助けるべきだという判断で、そこに身分を考えるべきでは無いと思っての判断だったが、失ってから後悔した」
「……っ」
「帰りたいと思うか?」
僕は何も言えない。僕を見ているエルトの顔は、とても冷ややかだ。どこか悲しそうにも見える。
「ここに来て、ゼリルと会うまで俺は、笑うという事自体、久しく忘れていた」
「エルト……」
「それでも俺は、ナゼルラ大陸の人々に支援物資を届けたい。魔王討伐を成功させ、平穏だった頃の大陸を取り戻したい」
「……」
「取り戻す。そしてそうなった時、大地にて人の居住地を立て直すには、状況をより多く知る者がいる方が良いだろう。地下空間からの移動や新国家の樹立の手伝いを、存命しているアルゼラの民のためにも、俺は行うべきだ。その後、再度罪に問われたとしてもな」
エルトはそこまで言うと、細く長く吐息した。
「――話すつもりは無かった。だがその石けんの香りは、本当に口を軽くさせるから困る」
「……」
「俺が罪を問われる立場で無かったならば、帰る時に連れ帰ると断言しただろう」
「それって……」
「いつか、『本当に辛い場合は、ゼリルにも俺と共に来てもらう事にする』と伝えたな。本心だった。しかし今、ゼリルと話せば話すほど、貴様の幸せを壊すべきでは無いという思いが強くなる。夜会では、俺よりも相応しい相手が見つかると良いな」
「僕、エルトと一緒に行くし、エルトが良い」
反射的にそう告げると、エルトが苦笑した。それから今度は優しい顔になった。
「ああ、俺も、本心では俺よりも相応しい相手が見つかる事など祈っていない」
「!」
「帰るとしようか」
僕は真っ赤になって頷く事しか出来なかった。ずっと、エルトと一緒にいたい……。