【十九】夜会A







 それから八時になった頃の事である。

「お手洗いに行ってくる」
「あ、うん」

 ずっと僕と話していたルシアが、シャンパングラスをテーブルに置いた。彼は真面目に良い人で、一人ぼっちである僕とずっと喋ってくれている。しかしトイレは仕方ない。ちょっと心細い気持ちで僕はルシアを見送った。それから会場を改めて見回すと、ライゼ兄上とエルトの姿が無かった。ルイス兄上は談笑中だ。

「あ、あの……ゼリル様!」

 その時だった。不意に声を掛けられて、僕は驚いた。見れば三人の貴族が、僕の方へと歩み寄ってきた所だった。

「ず、ずっとルシア様とお話しされていましたが……」
「お二人はどういう……?」
「もしや……?」

 三人の言葉に、なるほど、ルシアといて目立っていたのだろうと納得した。僕は助かっているが、考えてみると僕とは違いルシアと話がしたい人間はいるはずだ。独占してしまい申し訳ない……。

「魔導騎士団の同僚です」
「「「!」」」

 僕の言葉に三人が目を見開いた。それから目配せをした。そして――……

「僕ともお話しして下さいませんか?」
「僕とも!」
「僕とも是非!」

 驚いて僕は聞き返しそうになった。すると――直後、更に五人、人がやってきた。

「そういう事なら俺とも!」
「俺も話したいです」
「私も」
「僕も」
「俺も俺も」

 こうしてわらわらと僕は、八人の人々に囲まれた。一気に表情筋が凍り付いた。泣きそうだ。どうしよう。僕にはこの人数との会話を続ける能力が無い……。ルシアはまだ帰ってこないのだろうか。長い……トイレが長い……。

 八名は、俺に対して自己紹介を始めた。僕は必死で笑顔を浮かべて、一人一人に頷いて返す。緊張してしまってさっぱり頭に入ってこない。ええと、貴族子息三名、魔導騎士三名、宮廷魔術師一名、商人一名……? 彼らはどういう繋がりなんだろう? 何で僕の前に来たのかな?

「好きなタイプは?」
「好みの色とか?」
「あ、あの好きな人とか」
「俺、ゼリル様がタイプです」
「私は魔力には自信があります」
「俺、剣で前衛しちゃいますよ! 一生守らせて下さい!」
「僕恋人募集中です」
「あー、好き! 尊い! 目の保養!」

 一気に喋られても、聞き取れない。誰が何を言っているのかよく分からない。体が震えだしそうになってきた。みんな満面の笑みだが、僕は恐ろしくて青ざめそうだ……。こんなに沢山の人に、仕事以外で一気に関わった事が無いのだ。しかも雑談なんて、僕には備わっていない高度な能力を、皆駆使している。僕とは対人スキルが違いすぎる……!

「随分と囲まれているな」

 そこへ漸くルシアが戻ってきた。ホッとして僕は涙ぐんだ。そんな僕を見ると、両目を細めたルシアが溜息をついた。

「ちょっと目を離しただけでこれか」
「ルシア様、独占は狡いです」
「ゼリル様の同意を得ていたぞ? 何が狡いんだ? 俺にはここにいる権利がある」

 ルシアがそう言い終えた時の事だった。

「ゼリル」

 エルトの声がした。反射的に視線を向けると、エルトとライゼ兄上が立っていた。瞬間的に百合の匂いを嗅いで、僕の体から緊張が抜けた。

「ルシア、聞き捨てならないぞ。どうしてお前に、俺の弟のそばにいる権利があるんだ?」
「久しいなライゼ様。簡単だ。コミュ障の貴方の弟君が、草食動物のように狙われていたから、善意で護衛をしていた」
「全力で有難うルシア。だけどな、お兄ちゃんとして、俺が今からその役目は代わるからもういなくて良い」
「酷い言いようだな。所でそちらは? 紹介してくれ」

 ルシアがエルトを見た。周囲の八人も皆、エルトを見た。エルトは……僕を見ている。非常に冷ややかな顔で僕を見ている。顎を少し持ち上げ、両目を細め、明らかに不機嫌そうな顔をしている。ライゼ兄上との話し合いが、上手く行かなかったのだろうか?

「ああ、彼はエルトだ。家族のようなものだな」
「王国側の親戚だろう?」
「ん? どうしてだ?」
「昨日、仕立屋が噂していたと聞いた」
「夜会前の情報収集って奴か! 俺には無い知識だ。ルシアは、そういう点を、もう少しゼリルに教えてくれると助かる」

 ライゼ兄上はそのまま、話を変えた。なお、エルトの尋問の事は一応、魔導騎士団でも機密だったから、入ったばかりのルシアはまだ知らないのだ。

「それよりも! どうしてゼリルを囲んでいるんだ! 俺のゼリルを! 囲むなら俺ごと頼む。全くルイスは何をしていたんだ。こんなに愛らしいゼリルを一人きりにしておくなんて! 無能皇帝の烙印を今貼った!」
「聞こえていますよライゼ兄上。僕もそろそろ助けに入ろうと思っていました」
「思っているだけではダメだ。行動に移すんだ。実行力! 俺はそれが必要だとラインハルト様から教わってきた」

 結果、兄弟喧嘩風になり、その場が和んだ。しかし僕は、その間もじっと僕を見ているエルトが気になって、それどころではない。エルトはものすごく何か言いたそうな顔で僕を見ているのだが、何も言わない。不機嫌そうなエルトは若干怖いが、先ほどまでの緊張に比べたら、百合の匂いがする上に、大好きな顔が目の前にある現状は最高だ。

 僕は思わず顔を緩めた。気がついたら笑ってしまった。するとその場が――ピシっと張り詰めた。え?

 何か、エルトの体から冷たい空気のようなものが放たれている気がした。殺気に近い……。え? えええ? 何? え? 見れば、眉間に皺を寄せて、エルトが先ほどまでよりも怖い顔に変わった。なのに、今度は口元にだけは笑顔が浮かんだ。

「随分と楽しそうだな?」
「うん? だってエルトが目の前にいるからね?」
「は?」
「え?」

 不機嫌そうなエルトの声に、僕は思わず聞き返した。するとライゼ兄上が咳き込んだ。

「兄として解説しよう。エルト、誤解だ」
「聞こうか」
「ゼリルは、お前を見たから笑顔になったんだ。俺もラインハルト様を見ると無駄に笑顔になる」
「弁解はそれだけか?」

 エルトの声が怖い。僕は何か弁解しなければならないような事をしただろうか?

「えっと……エルトはどうして怒ってるの?」
「別に怒っているわけじゃない。ただ苛立っているだけだ。ゼリルは、誰でも良かったんだなぁと感じてな」
「!」

 それって……果てしなく嬉しい空想だと、嫉妬しているという事だろうか。逆に悲しい空想だと、僕が見合い相手を真剣に探している……即ちエルトに本気じゃないと思われているという事だろうか? ま、まぁ、考えてみると僕は、好きだとか、エルトに直接言ったことは無いし……。ん? 好き? あれ? 僕、やっぱり、エルトが好き?

「身分が釣り合う同じ国の人間の方が、幸せになれるだろう」
「待って、待って、待って! エルト、あ、あの――」

 好きだ。確信した。僕はエルトが好きだ。

「……」

 しかしそう考えた瞬間、僕は言葉が出てこなくなってしまった。
 ――『身分が釣り合う同じ国の人間の方が、幸せになれるだろう』……?
 これは……そっくりそのまま……エルトにも当てはまる。

 ルイス兄上もそうだが、最後の王族だというのだし、エルトは政略結婚等を今後する可能性も高い。その時、僕がいたら邪魔だろう……。

「……」

 でも。
 エルトの隣に僕では無い誰かがいる姿を見たくない……。見たくない!
 でも。
 僕にそんな事を言う権利は無い……。
 だって。
 僕達は互いに番いの香りはしているけど、伴侶になっていないし、結婚してるわけでない。

 ああああダメだ。でもでもだっては、使ってはならない言葉だと、ユーゼ父上に躾けられたのに!(稀人の格言)

「ライゼ。俺は部屋に戻るとする」
「エルト。お前な、俺の弟をいじめないでくれないか?」
「俺がいじめられた気分だが?」

 絶対零度の殺気を放ち、エルトがギロリとライゼ兄上を見た。僕は震え上がったが、その迫力をものともせず、ライゼ兄上が唸る。

「ゼリルも、ほら、勇気を出して」

 ライゼ兄上がそう言った。すると直後、ぼそっとルシアが言葉を挟んだ。

「話を総括すると、そちらはゼリル様の本命のお見合い相手という事で良いのか?」
「いいや」

 答えたのはエルトだ。エルトはルシアを見ると――僕に見せた事の無いような笑顔を浮かべた。何笑い? 満面の笑みなんだけれども……?

「俺はライゼの新しい友人の一人だ。それ以上でも以下でもない。だから邪魔をするつもりもないし、気にせず話してくれて良い。俺が会場に入ったすぐ後から、ずっと終始、楽しそうに二人で話していたように、会話を続けてくれ」
「言葉にトゲしか感じないが……ええと……一応、礼儀として名乗るが、俺は帝国のエリクス侯爵家子息でルシアと言う。貴方は?」
「エルトという」
「ゼリル様が泣きそうになっているから親切心で証言するが、八名は勝手にゼリル様を取り囲んだと考えられるし、俺個人はゼリル様と楽しく話していたつもりで、口説き落とそうと試みていたが、ゼリル様に気づいた様子は無く、特別楽しそうでも無かったぞ?」

 ……ルシア、本当に親切である。だけど、え、僕を口説きおとそうとっていつ? 明らかに話を盛ったよね? そんな記憶は皆無だ。何か、エルトを煽ろうとしているのか? どうして?

「へぇ」

 エルトが気のない声を出した。興味が無さそうだ。だが表情が変わって、再び険しい顔になった。

「そのフォローは入れるのに、他の八名とは違って、ここから逃げる気も無いんだな」

 エルトの言葉で、周囲を見れば、八名がいなくなっていた。

「当然だろう。俺はゼリル様を口説くつもりだ。貴方に渡すつもりは無い」
「あのそれ本気で言ってます? 僕、ルシアのものじゃないけど?」

 僕が間髪入れずに声を上げると、エルトが不意に僕の手首を握った。

「では、誰のものなんだ? 俺だろ? ゼリル」
「! うん。僕はエルトのものだよ!」

 さらりと挟まれたエルトの言葉に、僕は思いっきり同意してしまった。するとルシアが頷いた。

「良かったな。では、俺は失恋したし帰る事にする」
「え、あ」
「安心してくれ。完全には、本気で無かったから、そこまで衝撃は無い。それに特に、俺はゼリル様から番いらしい香りを感じた事も無い」
「……」
「では、またな」

 ルシアは最後に僕を見て笑うと歩き始めた。……大人だ。

「ルシアって思ったより良い奴だったんだな。エルトを煽って、本音を引き出すなんて……」

 ライゼ兄上が呟いた。するとエルトが息を呑んだ。そして両目を閉じると、顔を歪めた。

「悪かった。煽られた」

 そう言いながら、エルトは僕から手を離した。正直、僕は嬉しくて倒れそうだが、ルシアに悪い事をしてしまったという気持ちもある。

「まぁ、上手くいく事を祈る」
「ライゼ。先ほども話した通りだから、俺は上手く行かないべきだと理性では判断している。それは変わらないが――……いつまで自制出来るか自信が無くなってきた。俺は元来、沸点は低くない方なんだが……」
「恋ってそんなもんだって」
「そうだな」

 僕はエルトに見惚れてぼーっとしていた。エルトは現在苦笑している。その姿がまた格好良い。その後エルトは僕を見た。そして――スッと目を細めると、笑顔なのにどこか獰猛に見えるという、これまでに見せた事の無い表情を浮かべた。ゾクッとした。何だろう?