【一】繋がり
東アフリカに派遣された朝倉が、羽染良親を副官として旅立った後、帰還した。
それは、二人がチェスをした雨の日の、翌年の春の事である。
己の進言を飲んだ朝倉について考えながら、山縣は総七のオフィスへと足を運んでいた。
そのまま朝倉は羽染を、常時の副官とした。最近の朝倉は機嫌が良い。なんとなく山縣は、それに対して、退屈な気分になっていた。チラリと己の副官の、久阪歩を見る。お気に入りの人間を、副官にする軍人は多い。
しかし山縣の場合は、『久阪の監視』も業務であり、それを本人には悟られないようにしながら副官にしていた。久阪は、徳川家の間諜でもあると内偵済みだ。第二天空鎮守府諜報部を裏切る形での二重スパイだと判明している。
諜報部は、山縣本人もそうであるが、各藩の間諜や暗殺者を主として引き抜き作り上げられた組織だ。引き抜いているのは、主に、『榊中将』その人である。総七のオフィスの真横に小さな上官室があるのだが、そこには専ら木戸少将――表向きは木戸大佐がいるばかりだ。
――羽染晴親の生存は、今なお、厳重に秘匿されている。それが可能なのは、存命時から、二重国籍を得ていたからだ。
当然朝倉にも伝えていない。そして山縣の現在においても真の役割は、榊中将の副官であるから、その代理のように、総七のオフィスでは管理職的な立ち位置にあるだけだ。常時は、代わりに木戸の判断を仰ぐ事もある。
そんな諜報部にあって、長い膝を組み、山縣は溜息をついていた。
今度こそ、朝倉は、本気なのかもしれない。そう漠然と考えていたのは、先日花見があったからだった。その夜、朝倉邸に、羽染と、懐いている有馬を連れて、山縣は酔い冷ましに出かけた。そこで朝倉と共に、山縣は羽染に手を出した。抱いてしまうという選択肢もあったが、そうはせず、昂ぶっているようだった羽染の熱を解放して――終了。
逆にその事実が、山縣から見ると、本当に愛でているように感じられたのである。あるいは朝倉は、山縣にもあれ以上、羽染を触らせたく無かったのでは無いのか。全く、溜息が出てしまう。己だけの親友が、誰かにのめり込んでいる姿を見るのは、あまり心地良い事ではない。
――朝倉が過去、晴親について語る山縣に対して、同様の感情を抱いていた事など、山縣は知らない。
「山縣さん?」
そこへ不思議そうに、久阪が声を掛けた。物憂げな山縣というのが、珍しかったからだ。
「何考えてるんですか?」
「んー、羽染に下ってる、会津藩からの、朝倉暗殺命令についてだ」
言いつくろったが、これは事実でもある。朝倉にも、既に伝えてある事柄だ。なおこの対処のための監視も、諜報部側から久阪に出ている指示であるから、話して何の問題も無い。
「羽染の事、って事でもありますよね」
「何だよ、含みがあるな」
「だって、山縣さんと朝倉大佐と有馬大尉が、羽染を食堂で取り合ったって噂、まだ根強く残ってますよ? 実際、どうなんです? やっぱり、好きなんですか?」
その的外れの言葉に、山縣は眉を顰めそうになった。実際に取り合ったのは事実だが――ニュアンスが違う。山縣は、久阪が無事に諜報部の一員となったら、その後は羽染を副官として引き抜きたいと考えているのだ。何せ、羽染もまた、暗殺者上がりという事となるのだから。成功しても失敗しても、それは変わらない……の、だろうか。
時に思う。いくら恩人である晴親の子息だとはいえ、親友の朝倉を暗殺されたら、平静を保って接する事が可能だろうか、と。いいや、可能なはずだ。親友とはいえ、朝倉はただ特別な他者であるだけで、他人は他人なのだから。いつ死ぬとも分からぬ身であるのは、互いに同じだ。
食堂での契機は、有馬が羽染と恋人同士になったと言い出した時、朝倉が「まだ最後までしていないのならば、自分達にも脈がある」と、山縣に振った事だ。その脈を、山縣はあくまで諜報部においての副官としたいのだと強調しながら受け取り答えたが、朝倉は羽染を明確に抱きたがっているのだろうと山縣は判断したものである。
無論、朝倉は遊び人であるから、恋情を抱いているとは限らないが。
――朝倉にとっての特別が、既に己であるという事を、山縣は知らない。それでも、そうであれば良いと思いながら迎えた初夏だった。
若葉の季節。
山縣は、午後は休暇だったので、本日は非番の朝倉の家を訪ねる事とした。
「やぁ、山縣」
本日は、くだんの可愛らしいマンションにいた朝倉は、缶麦酒を片手に山縣を出迎えた。軽い和装姿の朝倉が、比較的珍しい。朝倉は私服も洋服である事が多いからだ。
「この子、懐いてくれてるよ」
朝倉が、視線で、ソファの上で丸くなっている黒い猫を示した。それを見て、喉で山縣が笑う。この猫は、己達の繋がりの一つだなと、感傷的になった。
それは羽染と朝倉の間には、無いものだろう。だが、あまり思い出したくない、不安定だった諜報部に入ったばかりの頃の記憶も想起させる。
「名前、何したんだった?」
「また忘れたのかい? ひーちゃんだよ」
「ちゃんまでが名前なんだっけ?」
「正解。由来は分かる?」
「分からん」
「寛晃くん」
「俺かよ」
「猫が嫌いなくせに、餌を求める君と、そっくりの素振りだからね。自分が猫だって理解してないくらい横暴だ」
朝倉がそう言ってクスクスと笑ったから、山縣は、黒猫との出会いを改めて思い出した。