【二】黒猫……過去D






 最近夢を見ない。
 その日帰宅した山縣は、ぐしゃりとシーツを握って起きた。表情が歪んでいる。夢。ああ、そうだ、夢だ。睡眠時も――そして将来に対しても。

 山縣は感じていた。心がどんどん乾涸らびていく。どこにも水はない。自分には失うものなど水すらないのだ。枯渇し疲弊していく内的世界。神の不在。では神とは何だ?

 泥のような眠気がもたらす粘着質な感覚は空虚を埋めてはくれず、ただまとわりついてくるだけで、それもまた乾いていた。けれど押し潰されそうにはならないから良いのかも知れない。それだけ虚ろだった。

 それでも笑ってみせる、笑っていられる。それはあるいは世界へ向けた嘲笑を、絵の具で描き換えたような歪さを持って、作り笑いとなるのだろう。ああ、正気の所在地が分からない。この感覚はいつか終わるのだろうか? それは自身の死とどちらが先なのだろうか。山縣には判断出来なかった。

 羽染晴親との出会いはそんな日々の中においてだった。
 ――己にとっての神はごくごく近い場所に今ではいる。

 そばにいると、自然に呼吸する事を許される気がした。太陽のような人だった。けれど本人は自分を月だと自称する。不思議なものだ。晴親の言葉は、すんなりと胸に響いてくる。

 だけど、ただ、それでは満たされない。晴親に満たされたいわけでもなかった。

 根底に根付いた虚無感は確かに姿を変えたけれど、息を殺しいつまでも凍えている自分がいた。結局終わりはないのか。だからといって死にたいとも消えたいとも思わないが。

 山縣は、ただ生きたかった。
 醜く足掻こうともそれだけは変わらない。

 けれど立ち続け、走り続け、加速することは、とても辛い。
 こんな時に縋れる相手がいるのであれば、それはそれで良いのかも知れない。
 しかしそんな惨めな姿を、弱さを、見せる勇気など無い。いいや、果たしてそれは勇気なのか?

 ――ああ、寝起きの思考はとりとめもないのに、どこか鬱屈としている。
 そんな事を考えながら、山縣は身支度をして、仕事場へと向かった。本日は上層部のいる部屋には入らず、『総七』のオフィスの椅子に座る。山縣が表向き所属する総務部七科の通称だ。

 机に腕を預けて、頬杖をつく。その後、無意味に立ち上がり、周囲を見た。
 眺めた観葉植物、片手には、サーバーから取ってきた珈琲。なんだか全てが嘘くさく思えて、嘆息してから立ち上がる。珈琲を飲みながら、何気なく庭を見た。

 窓の外を横切る黒猫を見たのはその時のことだった。

 ――黒猫が目の前を横切ると不吉?

 誰がそんな事を言い始めたのだろうか。ふと考える。黒猫が山縣は好きだった。
 だから何とはなしにオフィスを出て、黒猫を追いかけて外へと向かう。
 窓から見えた場所で蹲っていたその仔猫は、山縣が抱き上げると小さな声で鳴いた。
 温かい。自分には無いものだ、と、そう思う。

 人間は時に物体にしか見えない事があるけれど、動物は違う。
 人が死んでも悲しいとは思わないのに、この仔猫が死んだら落ち込む自信があった。
 そんな情動。
 数え切れない死を目にしてきた。きっと今後もそれは続くのだろう。

 それから山縣は朝倉の家へと向かった。本日は、その『親友』が休みだと知っていた。とあるマンションにいるというのは、把握済みだ。

「朝倉」
「ん? どうかしたの?」
「拾った。やる」
「僕に動物の世話が出来ると思ってるのかい?」
「お前の家には家政婦が来るだろ」
「それもそうだね。だけど山縣、君、猫が嫌いなんじゃなかった?」
「だからお前にやる」

 そう言いながらも山縣は上手に笑えている自信が無かった。
 このようにして時に感傷的になる己に吐き気がする。
 だが逃げる事は出来なかったし、逃げる気も無い。
 残酷に続く末路。想像しただけで、笑ってしまう。ああ恐らく、こういう時、常人であれば泣くのだろうなとふと思った。

「僕は殺してしまうかも知れないよ」
「そうか」
「ねぇ山縣。何かあったのかい?」
「逆だ。何も無ぇんだよ」

 今度こそ笑ってしまった。目を伏せて微笑する。
 ああ、もう、それで良かった。