【序】逢魔ヶ刻
朝倉は白ワインが好きだった。そして山縣は赤ワインが好きだ。だから山縣の事を一人想う時、時折朝倉はあえて赤ワインのコルクを抜く。
珍しく自宅で仕事用のパソコンを開きながら、たった一人の大切な親友の事を想う。
そう、親友。
あの山縣を相手に、親友という位置に陣取れただけでも誇れる事だと朝倉は考えている。山縣は本当に喰えない。彼の目を見ていると、眼光に飲まれそうになる事がある。朝倉が気圧される事など滅多に無いというのに、それをさも自然のごとくやってのけるのが山縣だった。
そうでなければ。
山縣寛晃という人間が、それ未満の矮小な存在であったならば、興味など沸きはしない。
白ワインをぐいと大きく一口飲んで、朝倉は左手で頬杖をつきながらモニターを見た。
山縣と出会ってからだ。人は一人では生きる事が出来ないのだと実感したのは。
そんな情感を伴う程度には、朝倉は山縣の事が好きだった。例えば山縣が羽染を欲すれば、代わりに羽染を己が手に入れてもいいなと思う程度には、だ。
朝倉には、守りたいものがずっと分からなかった。他の友人だと嘯く人々と山縣の違いが分からなかった。ただしその両者には、決定的な溝がある。なお、そして己と山縣の間にあるのは壁だ。
ただ――……もう引き返す事は出来ないとある日悟った。
守りたいものが分かった。それは故郷でもなければ国でも無かった。たった一人の友人だった。友人という名前を付けるには、その存在が大きすぎて、親友だと口にしてみる。なのにしっくりとは来ない。
では、山縣寛晃という人物は己にとって何なのだ?
そう自問自答した時、壁の存在理由に気づいた。
感情を無くした振りをして、愛という激情を押し殺し、生死にのみ関心を払ってきた朝倉は、その日、感情的になる事は何も恥ずべき事ではないのだと改めて理解したのだ。その過程は、実に簡単だった。
――第四次世界大戦の戦地から、朝倉は帰還し昇進した。秋だった。またすぐに、出る事になるかもしれない。皮肉にも他国との戦争が勃発してからは、国内は一つにまとまっている。
羽染良親は諜報部の一員として、軍属に復帰したが、羽染の顔を知る者も特に何も言わない。それが諜報部だという理解が軍内部で共通していた。他にも幾人か、鬼籍に入っていたはずの人間が、諜報部の者だとして姿を現しているし、そうでなくとも民間人を装っていた者達の復帰もあった。
その中の一人の姿に、朝倉は唇を噛んでいた。羽染晴親の姿を見つけてしまった瞬間である。
――逢魔ヶ刻。
何かに怯えるようにして、けれどその対象が何なのか分からないままで、呼吸し生きている。国外情勢なのか。そのはずだ。それにしても倦怠感が強い、ああ。
執務室において、豪奢な椅子に深々と座り、気づけば朝倉は溜息を漏らしていた。
憂いばかりが募っていく。
この時間になると、朝が早い分眠くなる。
眠気に誘われると、思いの他ネガティブになる。
逆に全てを投げ出して自暴自棄に生きて行きたい気分にもなる。
いや、既に何かの上で踊っている気分か。
ぬるま湯に浸かりきって生きてきたとは思わない。
けれど現在のような、つかの間の平穏が酷くもどかしい。
世界を軽蔑するような眼差しのまま、朝倉はあくびを噛み殺した。
こういう日は早く帰るに限る。
そう思い、席を立った。
第二天空鎮守府の庭をブラブラ歩きながら、群青色と橙色が混ざった空を見上げた。
夕立はとうに過ぎ去った。
駐車場までの僅かな時間。
誰にも会いたくなかった。けれど誰かと話をして見たかった。
「朝倉准将?」
その時声をかけられて、視線を向けた。
そこに立っていたのは軍に復帰した、羽染晴親だった。
「羽染元帥」
深々と頭を下げながら、面倒だなと朝倉は思った。
別段彼の明るさは嫌いじゃない。
ただ今は、そういう――明るい気分では無いのだ。すぐにでもこの場を立ち去りたい。
「まぁそう気を使わないで。山縣君は元気にしている?」
「山縣は貴方の部下では……」
「ほら、仕事の上司と友達の前じゃ違うかなと思ってね」
友達。その言葉を、音には出さず舌の上で反芻する。
本当に自分達は友達なのか。それだけなのか。そんな名前では片付けられない、恋ともまた違う、深い何かが自分達の間には横たわっている気がした。
逆にだ。
まだ晴親と山縣が恋人同士だと聞いた方がしっくりくるかもしれない。
「山縣は変わらないと思います」
「そうなんだ。朝倉准将は顔色が悪いけど、寝不足かな?」
「ええ、まぁ」
実際そんなようなものだったし、自分の生活スタイルなど分かった上で聞かれているのだろうと判断する。だからこれは、今日は空が青いね、という類の世間話と同じだ。早々に打ち切りたい。
「――今日はよく眠れそうかな?」
「ええ。今すぐにでもベッドに入りたい気分です」
「なるほどね。要するに、山縣君からは連絡が行っていないんだね」
「え?」
「じゃあまたその内。一度ゆっくり話したいんだ。息子もお世話になった事だし」
「お待ち下さい――山縣に何かあったんですか?」
「今日の午後から自宅療養。暇にしてるんじゃないかな」
晴親はそれだけ言うと、ひらひらと手を振って帰って行った。
残された朝倉は眠気が飛び、唾液を嚥下していた。
反射的に携帯電話を取り出して、山縣の連絡先を呼び出す。当然向こうから連絡が来た形跡もない。電話は数コールで繋がった。
『どうかしたのか?』
「こっちの台詞や。自宅療養は本当かい?」
『どうして知ってるんだよ』
思わず焦るあまり方言が出てしまった。それにしてもだ。
「何があったんだい? 大丈夫なのか?」
『あー……ちょっと撃たれてな。国内にいた外部のスパイとやり合った。だけど入院の必要も無かったし、銃弾の摘出も上手く行ったしなァ」
「……」
『最近一生懸命働いてたからな。休暇でも貰った気分で過ごす』
嘘だなと思った。声音から相当具合が悪いのだろうと察する事が出来るくらいには、長い付き合いだ。
――どうして連絡をしてくれなかったのだろう。
これだから逢魔ヶ刻の空は嫌いだ。悪い知らせを運んでくる気がして。朝倉は顔を歪めた。
「お見舞いに行くよ」
『いいって。忙しいだろう』
「来て欲しくないんだ」
『そういうわけじゃねぇよ』
「じゃあ今から行くよ」
眠気など完全に無くなってしまった。
見舞いに行くと山縣は、自宅のマンションで、真っ青な顔で点滴をしながら寝台に座っていた。
どう見ても大丈夫には見えなかったし、羽織っている軍服の下には、包帯が見て取れた。血が滲んでいる。処置後だろうが。
どうして連絡してくれなかったのか。
その一言が出てこなくて、朝倉は苦しくなる。
連絡する義務も義理も約束も自分達の間には何もないのだから。
「平気なの?」
「ああ。痛みもそれほど無いしな。それより誰に聞いたんだよ」
「君の上司」
「あの人なりの気遣いで優しさなんだろうけどなァ、また余計な事を」
「僕が来たのは迷惑だったかい?」
「いや。正直一人よりはホッとするな。この時間に来たって事は泊まっていくだろ?」
「ああ」
そんなやりとりはごく普通のいつもの事で。
逢魔ヶ刻はとうに過ぎ去り、夜が来る。
こんな自分達の曖昧な関係に付ける名前を、どこかで朝倉は探さずのはいられない己に気づいていた。失いたくないと思った。
――それはどうして?
その答えだけは知りたくなくて、結局その日はただ笑ってたわいもない話をして至極いつも通りに過ごしたのだった。
――果たして、それで良かったのか?
ああ、逢魔ヶ刻は毎日来る。
その度に、山縣が完治するまでの間、朝倉は考え続けたのだった。