【一】嫉妬対象からの善意
「やぁ、朝倉准将」
仕事帰りのある日、正面に車が止まった。
声をかけられ立ち止まると、驚く顔が現れた。
若々しく変わらない羽染晴親の姿に、朝倉は微笑しつつも冷ややかな感情が浮かんでくる事に気づいていた。それは仕事上の理由かも知れなかったが、山縣は自分に嘘を吐いていたからという方が適切だ。彼がたった一人慕って見せた上司が、今は没して不在なのだと。今更になってその事実が、胸に重く落ちてくる。
――だから頼れるのは、お前だけなんだ。
そう続いて響く山縣の声は、朝倉の空想に過ぎなかったが、そうであれば良いと願った過去と今がある。山縣にとってのただ一人になりたかった。山縣を支えられるただ一人に。
「改めて話をと思って――息子が世話になったね。お礼をしないとな」
「僕は別に報復されるほど世話をしたつもりはありませんが」
先日山縣の一件で何気なく声をかけられたほか、時折上層部の人間同士として言葉を交わす事はあったが、このように会話をするのは、初めての事だった。
「そう言う意味合いじゃないよ。嫌だなぁ。本当に感謝してるんだよ、父親として。良親は良い上司に恵まれた」
「羽染は貴方の生存とお立場を知った上で諜報部に?」
接触が無い様子であるというのを、朝倉は知っていた。何せ、羽染晴親は、滅多に人前に姿を表さない。その為、彼の軍籍上の名前を知る者も限られている。
「両方とも知らない。知らせる予定も今の所は無い」
きっぱりと断言した晴親の強い眼差しに、朝倉は目を細くした。
――それは、仕事上の理由か?
意地悪く聞いてやりたくなる。しかしそのカードは取っておく事にした。彼を除けば、他に山縣が執着を見せる者の中で、気になる存在など無いに等しい。山縣には仕事柄、変わった知人が多いのは知っているが、それはあくまでも知人である。皆が友情を得ているわけではない。
だが、羽染晴親は、山縣にとって、ただの知人でも、ただの上司でもないだろう。けれど友人ではない。そして最も重要な事に、晴親と山縣の間にある表現しがたい関係性の名前は、己と山縣の間にあるものとは事なり『親友』とは名付けられないのだ。
「では何故僕に、そのお話を?」
「うん。山縣君にね、少し大きな仕事を頼みたいと思っていて」
「その仕事と私に何か関係が?」
「君の父親の暗殺さ」
「――……父を?」
朝倉の父は高齢だった。先進医療の恩恵を受けているから、齢百二十を既に超えている程だ。意識こそ清明であるし、まだそれ相応に権力も持つ華族だ。父がいるからこそ、朝倉はまだ軍の、今だけは本人にとってはぬるま湯に浸っていられる。
その父親が死ねば、当然朝倉家を継がなければならない。
「僕がそれを聞いて黙っているとでも?」
「山縣君が失敗するとは思えない。後でそれを知るよりは良いかと思ってね」
「余計なお世話、と言うのを、僕は久しぶりに見ました」
「問題は山縣君が君のお父様を殺す事じゃない」
「ではなんです?」
「君が、もう山縣君の側にいられなくなってしまうという事なんじゃないかと思ってね」
「どういう意味ですか? 確かに朝倉の家督を相続すれば、僕は軍を離れることになりますが、僕と山縣の友人関係は互いの責務を理由に揺らぐ事は無い。僕が阻止に成功せずとも、後に和解できる程度の付き合いにはあります」
「うん。無理だと思うよ」
「僕と山縣の関係の何が分かるおつもりなんですか?」
「私もね、大丈夫だと思って離れてみた事があったんだよ、大切な者から。うん、やっぱりダメだね、輝けなくなる」
「お話が見えません」
「ねぇ朝倉君。私が山縣君に暗殺の命を下さなくて良いように、お父上にある事を進言してもらえないかな?」
「内容によりますが、そこまで僕と山縣の関係にご配慮頂けるのであれば、別の人間に暗殺を命じて頂けますか? 返り討ちに致しますので」
「山縣君じゃ返り討てない?」
「話をすり替えないで下さい」
「手厳しいな。だけどねぇ、今の諜報部で山縣君以上の暗殺玄人は一人しかいないし、君の友人だからこそ怪しまれずに近づく事が出来るという理由もあるしね」
「僕に話している時点で全てが無意味になっているんじゃありませんか?」
「無意味にしたいんだよ、正確には。私は無駄な死を重ねたくはない。だから全ては君次第なんだよ。朝倉君、君は山縣君が大切かい?」
「相応には」
「ではお父様の事は?」
「それも相応には」
「良親にそう答えられたら、私は泣くよ」
「今まで放っておいて随分と勝手ですね」
「胸が抉られた気分だよ……まぁ、それは事実なんだけどね」
そう口にした晴親は、どことなく寂しそうに見えた。ただそれでも笑っていた。
「それで、父になんと進言しろと言うんです?」
「天皇制廃止を唱えないように。君のお父様が代表する最大派閥さえ断念してくれれば、この国に天皇制は残る」
「矛盾していますね。士農工商はすでに撤廃されていますし、廃藩置県も近々議決されると決まっている。身分制度の名残りを無くす事こそが、あなた方の目的の一つではないのですか?」
「絶対王政という意味での天皇陛下はいらないんだよ。ただし、この国の日の丸を背負う象徴がいる」
「それは民主主義へと転じ、国民が選択した首相の背負う旗となるはずですが?」
「それじゃあ困るんだよ」
「何故ですか?」
「コロコロコロコロ変わる政治家じゃ意味が無いんだ。常に一定、安定した一本柱が外交には必要なんだよ。もしも次ぎにまた大戦が起きた時、議会が解散中だったらどうする? 誰かが交渉しようとして、その窓口はどこになる?」
「それはその時々の指揮者でしょう? その指揮者が可変なのは仕方がない事ではないですか?」
「仕方なくないんだよ。陛下にはこの国の象徴になってもらいたいんだ」
「それは私情ではないのですか? 会津藩は今上天皇陛下と懇意にされていると伺っていますから」
「そうとってもらっても構わないよ。はっきりいって諜報部を優遇してくれる天皇陛下を私は大切だと思っているよ」
それを聞いてから、スッと朝倉は目を細くした。
「――僕は、友人に直接手を下す事はないですが、嘗ての部下を手にかける事ならば可能かも知れません」
「つまり君に進言を断られて山縣君を暗殺に差し向けた場合、朝倉君は良親に手を出すと言う事?」
「ええ、そう言う事です」
「ここで私が君を手にかけない保証はないし、それに――……私が良親を見捨てる選択肢を常に持っているとしてもかな?」
「勿論です」
「そこまで進言するのが嫌なの?」
「いいえ。言うだけで構わないのであれば、飲みますよ」
「どういう意味?」
「父親という名前を得ている男が、僕の言い分を聞くとは思えないだけです」
「親子仲が悪いという情報は無いけれど?」
「外聞が悪いですからね」
そんなやりとりをした嘗てが、確かにそこにあった。
その数日後。
――山縣を、朝倉は受け止めてあげたかった。
山縣が好きな赤ワインのコルクを引き抜いて、朝倉は自分は純情だと嘲笑う。
ああ、覚悟した。理解した。自覚した。
軍服の上着を椅子の上に投げ捨てて、一人笑う。嗤った。
「僕は、山縣の事が好きだ」
それが朝倉のアイデンティティを確立させる。
ここには、そう二人しかいなかった。
「……あ?」
拳銃を弄んでいた山縣は、何とはなしにそれを朝倉の方へと向けながら口を開いた。
突然の告白。何事かと思う。その『好き』の意味を、知りたいようで知りたくはない。
山縣の中に、朝倉に縋るという選択肢は無かった。
「今更なんだよ?」
二人の間にある関係の名前は、『親友』だ。それは揺らがないと、山縣は確信していた。
しかし、ニヤリと口角を持ち上げる。
「お前が俺を愛してることなんて、とうに知ってる」
「分かってないくせに」
「青臭い事言ってんじゃねぇよ。で? 何が欲しいんだ? 目的は?」
「喉の渇きを埋める欠落感の消失を僕は望む」
「それ、俺がお前にやれるものなのか?」
カチカチと銃のロック部分を弄りながら山縣が言う。
朝倉は、音を立ててワインのボトルを置くと立ち上がった。
狡い世界が齎す虚無感にセンチメンタルな気分になりながら、山縣にただ歩み寄る。
「昨日、羽染元帥にお会いしたよ」
「なんでまた?」
「山縣。君に、僕の父親の暗殺を命じたくはないからだと言っていたよ」
「お前の父親の暗殺? そんな話、俺は……へぇ。俺に命ずる前に、お前にね。全く無意味な事をする事もあるんだな、あの人も。俺じゃあお前へのカードにゃならんだろうにな」
「そうでもなかった」
「と、言うと?」
「僕は、父に連絡を取る事にする」
「俺に殺されるのが嫌だからか。ま、俺がミスる事はあり得ないからなァ」
「ああ、山縣に殺されるのが嫌だからだ。その後お前に連絡を絶たれるのが一番怖い」
「それで俺への恋心を自覚したって?」
「うん、そう」
「嘘が下手になったな、朝倉ァ」
「どうして?」
「だってお前、もうずっと俺の事好きだっただろ?」
それは事実だった。だがこうもあっさりと口にされると、苦笑しか浮かんでこない。
赤ワインを飲めば、口の中で血の味に変わった気がした。
朝倉は、山縣の煙草の箱をたぐり寄せる。そして勝手に一本抜き取って、口へと含む。
「本気で言ってるのかい?」
「少なくとも俺の、最後に付き合ってくれる程度には、お前は俺の事を愛してる。そう思いたい、そんな時代に俺達は生きてる。違うか? 俺を愛せよ、朝倉」
「お前の愛してという言葉が僕には、殺して欲しいと聞こえる」
「それでいい。そうやって藻掻きながら苦しむのが俺達にはお似合いだ」
山縣はそう告げると、朝倉の額に銃口を押しつけた。
オイルライターで慣れない煙草に火をつけながら、朝倉は表情を崩さない。
「本当は、僕を殺せっていう命令を受けていた。正確には僕を人質に、父を脅せと」
「ああ、そうだ。分かってて、俺の前でそんなに無防備でいて良いのかよ?」
「山縣、君は、僕を殺してしまいたいくらいには、僕を愛していてくれるのかい?」
「俺は愛した奴には優しいぞ。手にかけたりしない。数年経てば考えも変わるもんだなァ」
「じゃあ僕の命は保証されているな」
朝倉のその言葉に、山縣は銃を下ろした。
そんな山縣の手首をきつく掴み、朝倉は目を細くする。ギリギリと締め上げられる感覚に山縣は嘆息した。
「そろそろ終わりにしよう。これまでの生ぬるい関係を」
「俺にとっての終結は、お前の頭をぶちぬ事だぞ」
「いつも僕は感じてた。何故、山縣がとうにそれをしなかったのか、その理由を」
「で? じゃあその理由は何だ?」
「僕達が相思相愛だからだろ」
山縣が銃を取り落とす。それを朝倉は拾い、逆に山縣へと銃口を向けた。
「望むなら、僕がいつだって殺してやる」
「残念ながら俺は死にたくねぇんだよ」
「だったら二人で藻掻こう」
朝倉はそのまま山縣の背に手を回し抱き寄せた。
そんな純情。恋愛なんていう甘味を舌に乗せ、曖昧に嗤う。
「愛、してる」
「知ってるっつの」
「だったら最後までお前に僕が付き合ってやる事だって知ってるだろ?」
「ああ、そうだなァ」
さぁ、堕ちていこう。これが二人の新たな関係の契機だった。