【四】冬の温度
朝倉が快癒したのは、クリスマスが間近に迫った頃の事である。
冬の街を、一人歩きながら、山縣は周囲を見渡した。忙しない人々の合間を、ゆったりと歩く己。山縣が響かせるブーツの音に、和装の民主は時々視線を向けるが、すぐに顔を背ける。軍人を敵にまわすのは得策ではないと、誰しもが知っている。
喫煙所で立ち止まり、山縣は煙草を銜えた。左手を風よけにして、右手のオイルライターで火を点ける。ライターをしまい、右手の指に煙草をはさんでから、深く煙を吐いた。その行先を視線で追えば、薄い灰色の空を横切る黒い鴉にぶつかった。
肺は満たされるが、それは心が満たされるのとはまた違った。空虚、どこかにそれが巣喰っている気がした。雑踏を一瞥し、それから左手を持ち上げて、薬指を見る。
嵌っているのは、シンプルな銀の指輪だ。
三日前、朝倉の快気祝いをした日、ポーカーをして負けた結果、嵌めていろと渡された代物である。何故この指なのかと聞いてみたら、特に理由は無いと返ってきた。
「人の気も知らないで」
呟いてから、また煙草を吸い込んだ。
己ばかりが気にして、先方が気にしていない現実を思い知らされる。
そんな時、体をどうしようもない孤独が襲う。だから絡めとられる前に、血管をニコチンとタールで満たすのだ。
山縣は、最近考えていた。自分は、朝倉の事がどうしようもなく大切らしいと。
そう自覚した結果、結果、結果――……特に何も変わらなかった。
会いに行き、会話を楽しみ、ゲームに興じ、帰宅する。
大人の恋がそういうものなのか、臆病な自分の恋がこういう形なのか、時に悩む。
けれどそもそも、自身が大人であるのか、第一いつから臆病になったのかとも考えてしまう。とりあえず平静を装うのだが、冗談めかして指輪をはめられただけで、朝倉に会いにいくのが怖くなる自分がいた。
まだ嵌めていたのか、そう言われるのだろうと、何度も考えていた。
だが名残り惜しくて、指輪をずっと嵌めたままでいる。
「山縣?」
その時、唐突に後ろから声をかけられたものだから、山縣は咽せた。煙がおかしな所に入ってしまった気がした。慌てて視線だけで振り返れば、そこには笑顔の朝倉がいた。
「なんだか久しぶりだね」
「一昨日会っただろうがァ」
「三日も会わないなんて久しぶりじゃないかな?」
「そ、そうだったか?」
「いつもは、僕の家に来るだろう? 特に非番の前日。今日は非番だろう? 昨日は、何か用でもあったの?」
「まぁ、ちょっとな」
曖昧に山縣は笑った。笑みが引きつらないように気をつける。
朝倉はといえば、非常にいつも通りだ。笑顔である。
「昼食はとった?」
「いや、まだだ」
「仕事中ではないよね?」
「ああ。ワインが切れたから、たまには買いに行こうかと思ってなァ」
「なるほどね。それなら、すぐ帰るの? 暇なら、何か食べに行かないかい?」
「おう、そうだな」
別に空腹では無かったが、朝倉と一緒にいたい気がした。
だから山縣は頷いて、そして、不意に朝倉の左手に気づいた。薬指。
短く息を呑んで、二度、瞬きをした。
「お前、その指輪――」
「うん?」
「なんで嵌めてるんだ?」
「どういう意味?」
「いや、意味って言われても」
山縣は自分の左手を一瞥する。それから改めて朝倉の左手を見る。
どこからどう見ても、こうしてそろうとペアリングだ。
「最近このブランド流行っているらしいけど、知ってた?」
「まぁな。羽染が珍しくカフスボタンをつけていたから、聞いたら有馬に貰ったらしくて、それがこのブランドだった」
「なんで流行ってるか知ってる?」
「いいや。今の所、これらを何かに利用する予定はゼロだ。諜報部では話題になった記憶も無い」
「――贈った相手を、自分の虜に出来るらしいよ」
「は?」
「効果はどう? 僕の事、気になって気になって気になって仕方がなくなってるはずなんだけどなぁ」
「っ」
山縣は、煙草を取り落とした。それは――今の状態そのものだ。だが、この指輪を貰う前から、己は朝倉の虜だった自信がある。そんな自信は欲しく無かったが。
「おかしいなぁ。山縣はいつも通りかぁ」
「……」
「さらに、君の指に、僕が贈った指輪があるせいで、僕の方が意識しちゃってる。実はね、昨日は君が来なかったし、指輪はきちんと嵌っているのかずっと気になっていて、他の事が手につかなかった」
「なんだよ、それは。急に――」
「僕は恋愛に積極的だから」
「へ?」
「山縣を好きだと自覚した今、何もしないではいられないんだよ。特に恋人になった今は、尚更ね」
その言葉に、山縣は目を見開いた。朝倉は右手を頬に添えて、その肘に左手を当てている。洒落た茶色のコートを着ている。そこに上質なマフラーだ。いつも朝倉が身につけているため、軍ではそのマフラーが朝倉の持ち物として、ちょっとだけ有名だ。細く吐息した彼は、それから、ポカンとしている山縣を見て首を傾げた。
「どうかした?」
「いや、お前……」
山縣は、動揺を落ち着けようと、唾液を飲み込んだのだが、逆にその音が耳について、そうしたら鼓動の音まで大きく感じて、体が硬直した気がした。
「俺の事が、その……そんなに、好きなのか?」
「え? 何を今更」
「聞いてないぞ」
「何度も言ったと思うけど」
「いつ?」
「今も」
それはそうだが、何を言って良いのか分からなくなり、山縣唇を開いては、また閉じた。慌てて新しい煙草に火をつけて、そんな自分の挙動不審さを誤魔化す。
「たまには外でデートするのも良いよね」
「デート?」
「違うの?」
「……――お前な、それ、本気で言ってるのか?」
「勿論」
「もし俺を揶揄ってるんなら、いい加減にしねぇと頭ぶち抜くぞ」
「揶揄ってなんていないけど?」
「朝倉、俺は純情なんだ。遊んだら許さねぇぞ」
「純情だというのは初耳だけど、気持ちを疑われるのは心外だなぁ」
「なら、信じさせろよ」
「指輪だけじゃ不満かい?」
「いや、そ、そういう事じゃなく」
「じゃあどういう事?」
「――抱かせてくれ」
「嫌だよ」
「弄ばれた……ああ、俺はなんて不憫なんだろうなァ」
「待って待って、ホテルに行くのは問題ないよ。抱かれるのが嫌なだけで」
「ホテルのフルコースでもおごってくれんのか?」
「いくらでもごちそうするけど――そうだね、そうしようか。タクシーを拾おう」
こうして二人で車を拾った。向かった先は、比較的遠い、港のそばの高級ホテルだった。車内で朝倉が予約を入れていたため、特別室に通されてすぐに豪華な料理が運ばれてきた。山縣好みのワインも揃っていた。
「確かに、たまには外食も良いな」
「そうだね。けどまぁ僕は、二人きりになれるなら何処でも良いというのが本音だけどね」
「二人きりねぇ」
そう口にして、もしかしたら何か話があるのかもしれないと、やっと山縣は気づいた。本日の不可思議な朝倉の言動は、誰かの目を気にしていたのかもしれない。用心深くして、更に自分に相談するような話題は、一体何だろうかと、山縣はワインを飲みながら思案した。そう考えて改めて朝倉を見るが、特に普段と変化は無い。
「そろそろ上の部屋で飲み直さないかい?」
「おぅ。貞操の危機だな」
山縣は意識を切り替えて、いつも通りの冗談を口にした。
すると朝倉が、目を丸くして、不思議そうに山縣を見た。
言った自分が恥ずかしくなって、山縣は顔を背ける。
「ねぇ山縣」
「なんだ?」
「――僕と二人でいて、貞操が危機じゃない日なんてあると思ってたの?」
朝倉の心底不思議だという声音に、山縣は咽せた。
その後、二人で店を出た。そしてエレベーターに乗る。
特に会話は無かった。
そして部屋に入ってすぐ、鍵をかけた朝倉を眺めながら、腕を組んで山縣が切り出した。
「で? 何か相談でもあるのか?」
「相談? まぁ相談するとすれば、僕は上が良いんだけど、山縣もそうみたいだから、ここは折れて欲しいという事くらいかな」
「冗談を言っている場合か、俺は真面目に――」
「僕はいたって真面目だよ」
「!」
そう言って、朝倉が、不意に山縣の腕を引いた。
驚いているうちに、山縣は横長のソファの上に組み敷かれた。
「いや、おい……」
「ん?」
「どけ」
「いやだね」
「いやいやいや――っ……ちょ……ッ、ん」
そのまま唇を塞がれて、山縣は焦った。これ、は、一体どういう状況だろうかと、慌てて逃れようとしたのだが、さすがは朝倉、鍛えているだけあって、押さえ込まれると身動きが出来ない。更に問題は――このキスが嫌ではないため、強く抵抗出来ない事だった。これが朝倉でなければ、今頃額をぶち抜いている自信がある。しかし、しかしだ。
――下になるのは、無理だ。
長いキスが終わった所で、山縣は肩で息をしながら、改めて朝倉を押し返した。
「待て、話し合おう」
「何についてだい?」
「そ、そもそも、俺達は本当に恋人同士という事で良いのか?」
「うん。他には?」
「え、あ……え、あのだな、お前、俺とヤりたいのか?」
「もちろん」
「……俺に突っ込みたいのか?」
「そうだよ」
「逆を検討しないか? 検討してくれ、ぜひ」
「検討しても良いけどな、結論は変わらないと思うよ」
「……――好きな相手の頼みだぞ? お願いだ、朝倉。俺は、無理だ」
「どうして?」
「は? ど、どうしてって、俺は男だぞ」
焦って山縣が口走ると、朝倉が呆れたような顔をした。
「見れば分かるよ。それに関しては、僕に突っ込みたそうな山縣に逆に聞いても良いかもしれないけど、抱くのは良いのに抱かれるのは嫌ってどういう事?」
「どうって言われてもな、それならお前が抱かれたっていいだろうが。ああ、そうだ。朝倉が俺に抱かれれば全部解決だろうが」
「僕は山縣を啼かせたい」
「え」
「突っ込んで快楽を感じさせて、いっぱいにして、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。僕で染めたい。愛してる。僕のこと以外何も考えられなくしてやりたい。いつもの余裕を消してやりたい。ドロドロにして、もう僕なしじゃいられなくさせたい。はっきりいって、主導権を握りたい――ので、下は無理です。以上!」
「以上じゃねぇよ、ボケ! おまっ、何言ってんだよ!」
「僕に抱かれるのは嫌かい?」
「今ので一気に嫌になった。嫌度に拍車がかかった」
ソファの上で抱き合いながら、そんなやりとりをする。朝倉の体重がかかっているから、胸が息苦しい。押し返しているのに朝倉は動かないから、正直重い。見た目は細いくせに、筋肉がすごいというのは、よく分かる。しかし、己も負けていない。よく、こんな男らしい男を抱きたいと思うものだと疑問に思ったが、それは自分もそうなのだから何とも言えない。お互いごついというわけでもないが、女性らしさとはかけ離れている。
「じゃあどうしたら山縣は、抱かれてくれるんだい?」
「とりあえず煙草を吸わせろ。そしてその間、お前はシャワーでも浴びて来い」
「あ、思いの外まっとうな回答が返ってきた。感動したから行ってきます」
朝倉はクスクスと笑ってから、体を起こした。
素直に浴室へと向かった彼を見て、山縣は座り直して、煙草の箱を取り出した。
なんとか落ち着こうと、煙草を銜えて火をつける。
しかし動揺しているせいか、上手く火が点けられない。
石が切れたのかもしれないとライターをしまい、ホテルの灰皿脇にあったマッチで火を点けた。その時、すぐそばにゴムの箱があるのを発見してしまった。朝倉が先程何か置いていたのだが、それがこれだとすぐに分かった。あれである。それ、これ、あれ……混乱した思考で、山縣はとりあえず煙草を吸った。
――朝倉を好きだというのは、本心だ。だから、抱かれるのが嫌だと思うのは、単純に想定外だったせいに過ぎない。これまで一度も、自分が下になるという考えは無かったのだ。やれるだろうか……それがまず怖い。なるほど、怖いのか。
「山縣? 君も入る?」
「おう」
そこに朝倉が出てきたので、煙草を消して、入れ違いにシャワーに向かった。
そして冷水を浴びて、気合いを入れた。男だ、やると決めたらやるべきだ。
銀色の指輪を見る。山縣は、勇気を出そうと決意していた。
シャワーから出ると、朝倉が水を用意していてくれた。
喉を潤しながら、タオルで濡れた髪を拭く。そうしながら、朝倉を改めて見た。
「なぁ朝倉」
「なに?」
「ローションとかあるのか?」
「――うん。前向きに検討してくれたの?」
「……」
「任せてくれて良いよ」
「……挿ると思うか?」
「僕が挿れられないと思うの? 逆に、山縣はいつも突っ込んでるんじゃないの?」
「そりゃあまぁそうなんだけどな……」
「とりあえずベッドに行こう」
その言葉に、山縣は緊張しながら頷いた。
――そして。
「っ、ぁ、ぁア、お、い、待て、もう良いから」
「入るか不安なんだろ? もうちょっと慣らしたほうが」
「ふっ、あ」
もう二時間も後ろを指で解されている。全身が熱くなり、既に蕩けそうだった。
ぬちゃぬちゃとローションの音がする度に、体が切なく痺れる。
最初は声など出なくて、吐息を押し殺していたのだが、今では勝手に嬌声が漏れていた。
「っ、ン、く……!」
「ここ、好きみたいだね」
「や、やめ……っ……あ、ああっ」
ぶるりと震える。出しそうになるのだが、中の刺激だけで果てられるような体ではない。違和感があるのだ。異物感が正しいかも知れない。しかし――想像していなかったほど、気持ちが良い。ジンジンと刺激される度に、快楽が腰に響いてきて、感覚がなくなっていく。シーツを握り締め、山縣はきつく目を閉じた。
「朝倉、ァ……っ、ぁ」
「なんだい?」
「てめぇ、覚悟しろよ、次」
「次?」
「俺が上になったら倍返し――うああああっ」
山縣が言いかけた所で、朝倉が急に中に押し入った。
突然の事に、山縣は思わず叫んだ。ローションのせいですんなりと入ってきたのだが、なにせ、質量がすごい。仰け反って、思わず腰をひこうとしたが、するとがっしりと捕まえられた。体重をかけられて、一気に奥まで貫かれる。
「あ、あ、っ――」
「次も下が良いと思わせてやるから、ちょっと我慢してくれ」
「ああああ」
そのまま激しく打ち付けられて、山縣は生理的な涙を浮かべた。衝撃が凄すぎた。
頭が真っ白になる。呼吸に必死になっていると、感じる場所を強く突き上げられた。
そしてそこを突く形で、朝倉が動きを止めた。
「あ、あ、あ、あ、待て、いやだ、出る」
「出していいよ」
「うああ――!」
そのまま山縣は、前を撫でられて、呆気なく放った。
体が弛緩して、がくりとベッドに沈む。汗で髪がこめかみに張り付いた。
すると中に入れたままで、朝倉が山縣を抱きしめた。
「ン」
「どうしよう。僕、山縣が好きすぎて辛い」
「……だったら早く終わらせてくれ」
「無理かなぁ」
「おい! っ、あ」
その時朝倉が体を揺さぶった。思わず山縣は声を上げる。
太ももを撫でられた瞬間、山縣はまた震えた。
熱が再び体を支配していく。
こうしてその日、角度を変え、何度も何度も交わった。
最終的に山縣は、声が掠れるほどに啼かされた。
夜が来ていた。ビシッと軍服を着直して、何事もなかった素振りで、二人で部屋を出た。事後はずっと、いつも通りの会話で、甘さなど無かった。それでも内心緊張しつつ、更に腰には違和感を覚えつつ、山縣は必死で歩いた。朝倉は笑顔だ。非常に機嫌が良さそうなのが苛立ちを誘うが、ま、まぁ、満足してくれたのならば幸いだと、山縣は前向きに考える事にしていた。そうして一階に降りた時の事だった。
「あれ? 朝倉さん? 山縣さんも」
そこには、有馬と羽染が立っていた。
「お食事ですか?」
「おう、そうだ」
羽染に対して、慌てて山縣が言った。朝倉は笑顔を浮かべているだけだ。
すると有馬が首を傾げた。
「え? レストランにはいなかったですよね」
「えっ」
「俺と羽染、三時間前から今までいたけど、見てないです」
「有馬、失礼だろう――お、お二人は、きっと、個室でお食事を――」
「けど羽染、ここはルームサービスは無いぞ? 特別室は窓が吹き抜けだし、いなかった」
「ば、ばか! 有馬、山縣少将殿の首を見ろ」
「へ? ……っ、あ! え、そ、そういう、あ、すみませんでした! 行くぞ羽染!」
「失礼します!」
山縣は、何か言おうとしたのだが、二人は足早にエントランスの扉をくぐっていった。 ――首?
慌てて山縣は、そういえば少しツキンとする右側を押さえた。
そして左手で、オイルライターを取り出した。その鏡のような表面で確認すれば、そこにはキスマークがある。サッと青くなった。羽染と有馬に絶対に勘ぐられた。
「たまに有馬は鈍いよね。普段は羽染の方が鈍そうなのに」
「朝倉、お前、おい、これ……」
「うん?」
「……――んでもねぇよ、おい、そのマフラーをよこせ」
山縣は朝倉からマフラーを奪い取って自分の首に巻いた。
そして二人で冬の外に出た。
――キスマークよりもよほど、朝倉のものだとみんなが知っているマフラーを巻いている方が目立つのだが、山縣はその事実に気づいていなかった。そのマフラーもまた、指輪と同じブランドである。
「ねぇ山縣」
「あ?」
「僕の虜になった?」
「は?」
「僕は山縣の虜なんだけど」
「黙れ」
そんなやりとりをしながら、二人は帰った。
吐いた息は白かったが、どちらとも、心は暖かかった。
冬は冬で、暖かい時もあるのかもしれない。
そのまま、忙しない街へと、二人の姿は消えていった。